幸福とは何か? - 私たちの問いの始まり 第8回
私たちはこれまでの連載で、「幸福」という概念を様々な羅針盤を使って探求してきました。
社会学は幸福を社会的なつながりとして、哲学は善き生き方として、心理学は心のスキルとして、経済学はお金と効用として、生物学は化学反応として、そして文化人類学は文化的な産物として捉えてきました。
これらの議論は、私たちに「幸福」が多面的で、一筋縄ではいかない概念であることを教えてくれます。しかし、すべての議論に共通する、見過ごされてきた一つの大きな前提があります。
それは、「幸福」を、不幸や困難とは切り離された、それ単体で存在するポジティブな状態だと見なしていることです。
今回、私たちは思想工学の核心に触れ、この前提がなぜ私たちの幸福を阻害する「落とし穴」なのかを深く探求していきます。
「禍福は糾える縄のごとし」という真理
思想工学は、「幸福」と「不幸」を個別の事象として捉えません。それはまるで、「禍福は糾える縄のごとし」という言葉が示すように、両者が一本のロープのように絡み合い、決して切り離すことができない一体のものであると考えるからです。
例えば、人生で最も幸福だと感じた瞬間を思い出してみてください。その幸福は、必ず、その前の苦労や困難、あるいはその後の努力と結びついていませんか?
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病気が治ったときの喜びは、病気の苦しみがあって初めて深く感じられます。
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困難なプロジェクトを成功させたときの達成感は、その過程の挫折や不安と一体です。
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誰かと深く愛し合う喜びは、孤独や別れの悲しみを知っているからこそ、より尊く感じられます。
従来の幸福論は、この絡み合ったロープの中から、意図的にポジティブな糸だけを抜き出して「これが幸福だ」と論じようとします。
これが、幸福だけを追い求めることの「表層性」です。
幸福を論じることがナンセンスな理由
幸福を「表層的な一側面」と捉える思想工学にとって、それを単独で論じることはナンセンスです。なぜなら、以下の重要な要素を見落とすことになるからです。
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「不幸」は、成長のための必須の構造である 思想工学は、不幸や困難を避けるべきものとして見なすのではなく、私たちの内面に「なぜ?」という深い「問い」を投げかけるための、貴重な資源だと考えます。困難を経験することなくして、私たちはレジリエンス(回復力)を養うことも、人生の本当に大切な価値観を見出すこともできません。
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幸福の価値は「変容」のプロセスにある 私たちが本当に価値を置くべきは、「幸福」という最終的な結果ではありません。病気を乗り越えたことによる「健康のありがたみ」への気づき、困難なプロジェクトから学んだ「新しいスキル」や「自信」、そして失恋から得た「本当の愛とは何か」という深い洞察です。これらはすべて、不幸や困難を乗り越える中で起きた内面の「変容」であり、これが思想工学が考える真の豊かさなのです。
結論:幸福は「探す」ものではなく「創造する」もの
幸福を「外から見つけて獲得する」ものだと考える限り、私たちは常に満たされない感覚に囚われ続けます。
思想工学が示す「幸福論」は、それを根本から覆します。幸福とは、事象のポジティブな側面だけでなく、ネガティブな側面をも含めた全体を深く見つめ、その中から「問い」と「変容」を創造していくプロセスそのものなのです。
次回、私たちはこの「変容」という概念をさらに深掘りします。「幸福」という結果ではなく、成長というプロセスに価値を置く生き方について、具体的なヒントを探っていきましょう。