生きづらさ" - その生の残響構造を探る 第2話
「私が望んだわけではないのに、生きることを強いられている」
そんな違和感を、私たちはどこかで感じたことがある。
■ 生の「前提性」への違和感
私たちは、生きることを自ら選んだわけではない。
目が覚めれば世界はすでに在り、家族や社会、制度の中に投げ込まれている。
これは存在論的に言えば、「投企(throwness)」の問題
つまり、私たちは“あらかじめ”世界の中にいたという事実に由来する違和感だ。
生は「選択」ではなく「前提」として始まっている。
それが、「自由」の観念と衝突する。
■ 生の強制性=ゲームのルールに同意していない
よく人生は「ゲーム」にたとえられる。
だが、私たちはこの人生ゲームのルール説明もされないまま、気づけばコマを進めさせられている。
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誰が開始ボタンを押したのか?
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どんな勝利条件なのか?
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なぜリタイアが許されないのか?
この不条理な「プレイヤーとしての強制参加」にこそ、“生きづらさ”の深い根がある。
■ 「反出生主義」の問いを超えて
「生まれてこなければよかった」
「誰が勝手にこの人生を始めたんだ」
といった感情は、反出生主義という思想の文脈でも語られることがある。
だが、本稿ではその是非を論じるのではなく、
その問いが浮上する構造を読み解く。
なぜそのような問いが生まれるのか?
それは、「自己決定」や「自由意志」という近代的な幻想が、
生の前提的構造と噛み合っていないからではないか?
■ 人生は「ローグライク」だった?
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毎回世界が変わる
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死ねばすべてやり直し
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正解がない
つまり「不確実性」と「強制性」がセットになっている。
生きるとは、選べないフィールドに投げ込まれ、納得できないまま選択を強いられ続けること。
この理不尽さを引き受けながら、なお「どう動くか?」を模索することが、
生の工学的再設計の出発点となる。
■ 思想工学的応答:不条理にどう応えるか
思想工学は、このような“生の不条理”に対して、
以下のようなスタンスをとる:
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同意なき参加という事実を、制度ではなく構造として理解する
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その構造のうちに「選べる場」を再構築する
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ルールの理不尽さに対して、「小さな編集権」を持つという方向へ向かう
つまり、すべては選べないが、すべてを諦める必要もないという中間地点を目指す。
■ 次回予告:
第3話では、「なぜこんなにも病弱に生まれたのか?」という問いを手がかりに、
身体という“受動性の極地”から、再び「生きづらさ」の構造を掘り下げていきます。
■ 編集後記:
この話の結論を「生まれてきてよかった」と回収するつもりはありません。
むしろ、「そうは言い切れない」という感覚と共に、
それでもどのように歩むかを考える姿勢こそが、思想工学の立脚点です。
🪞みなさまへの問いかけ
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あなたは、自分がこの世界に生まれたことを、心から肯定できますか?
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生きることしか「選べなかった」ことに対して、どんな気持ちを抱いていますか?