"掴まず、抗わず、流れとともに" 第183話
前回、第182話では、「生活の仕事化をほどく」を扱いました。
家庭。
趣味。
読書。
会話。
散歩。
そうしたものが、いつの間にか
インプット
最適化
運用
投資
改善
といった仕事の文法でしか読めなくなっている。
その状態をほどくために、まず生活の中に入り込んでいる仕事語彙を見つけ、それを生活語彙へ戻すこと。
役に立つからやる、でしか生活を認めない癖をゆるめること。
そこまでを見てきました。
しかし、生活の仕事化を少しほどいても、なお残る中心問題があります。
それは、人間価値の物差しが一本化していることです。
仕事がうまくいく。
だから価値がある。
仕事が揺れる。
だから価値が曇る。
役に立つ。
だから存在していてよい。
役に立てない。
だから存在感が薄くなる。
この配線です。
第164話では、「価値を能力から存在へ戻す」という思想の基礎を置きました。
今回は、その思想を運用へ落とします。
つまり、価値の基底は存在にある、という理解を、日常の設計にどう変えるか。
そのための手順が今回のテーマです。
プロトコル12。
価値尺度の多元化。
結論を先に言います。
価値尺度の多元化とは、肩書きを増やして自分を飾ることではありません。
人間価値を、仕事能力一本で採点しないために、複数の独立軸を持つことです。
関係。
身体。
遊び。
美意識。
学び。
こうした軸を、仕事の補助線としてではなく、それ自体で成立する価値軸として設計する。
このプロトコルの役割は、仕事が揺れた日に存在まで一緒に落ちないよう、価値の窓を複数持てる状態を作ることです。
なぜ価値尺度は一本化しやすいのか
人は不安な時、わかりやすい尺度に寄りかかります。
そして現代で最もわかりやすい尺度は、仕事能力です。
早いか。
役に立つか。
成果があるか。
評価されるか。
比較で勝てるか。
これらは見えやすい。
数字にもなる。
人にも説明しやすい。
だから、価値の窓がそこへ集中しやすい。
しかも仕事能力は、外からも頻繁に返答が返ってきます。
褒められる。
注意される。
数字が出る。
反応がある。
つまり、価値確認の速度が速い。
この速さがあるから、人はそこに価値の主窓を置きやすい。
しかし、一本化には当然リスクがあります。
その窓が曇ると、世界全体が曇って見える。
第169話で「仕事ができない日を生きる練習」を扱った時にも見た通り、
仕事が揺れた日
と
自分に価値がない日
が、ほとんど同義になってしまう。
これが苦しい。
だから必要なのは、
仕事を軽く見ること
ではありません。
仕事以外にも独立した価値軸がある状態を作ることです。
それが多元化です。
多元化は「趣味を増やすこと」とは違う
ここで誤解を外します。
価値尺度を増やす、と聞くと、
では趣味を増やそう。
肩書きを増やそう。
副業をしよう。
資格を取ろう。
そういう方向へ考えやすい。
しかし、今回の話はそこではありません。
肩書きを増やしても、その全部を
成果
評価
比較
で読むなら、尺度は増えていません。
仕事が二つになっただけです。
資格を増やしても、それがまた
能力の証明
としてしか機能しないなら、多元化ではない。
自己演出が増えただけです。
多元化で必要なのは、
別の種類の価値
です。
つまり、仕事能力の延長では測れない軸。
役に立つことと直結しない軸。
勝敗や成果にすぐ換算されない軸。
そこを持つことです。
だから、このプロトコルで扱うのは
軸の数
ではなく
軸の独立性
です。
ここが非常に大切です。
独立軸とは何か
独立軸とは、仕事が揺れても、それだけでは消えない価値の窓です。
また、仕事の成果へすぐ換算されない価値の窓でもあります。
今回扱う代表的な独立軸は五つです。
関係。
身体。
遊び。
美意識。
学び。
もちろん、人によって他にもあります。
土地。
祈り。
静けさ。
制作。
自然。
手仕事。
しかし最初は五つで十分です。
大事なのは、それぞれを
仕事の補助線
ではなく
独立した評価の窓
として扱うことです。
たとえば身体。
仕事のために整えるのではなく、身体が少し楽であること自体に価値がある。
関係。
人脈形成ではなく、誰かと少し穏やかにいられたこと自体に価値がある。
遊び。
創造性向上のためではなく、ただ面白かったこと自体に価値がある。
ここまで行ってはじめて、独立軸になります。
第一の軸 関係
まず関係です。
ここでいう関係は、ネットワークでもコネクションでもありません。
仕事の資産になる関係ではなく、人とのあいだの生きた接触です。
誰かと少し安心して話せた。
無理に説明しなくてよかった。
気まずさがあっても一緒にいられた。
相手を評価せずに話せた。
こうしたものです。
仕事中心の価値配線が強いと、関係もすぐ機能で読まれます。
有益か。
人脈になるか。
学びがあるか。
自分を高める会話か。
そうなると、関係そのものの価値は痩せる。
だから関係軸を独立させる時は、
役に立つか
をいったん外す必要があります。
会ったあとに、何を得たかを数えない。
ただ、会った。
話した。
一緒にいた。
それだけで価値として数える。
これが関係軸の出発点です。
重要なのは、関係の質を高くしようとしすぎないことです。
深い絆。
完全な理解。
理想的な会話。
そういう高すぎる基準にすると、また成果化します。
多元化に必要なのは、まず
関係があったこと
を価値として読むことです。
第二の軸 身体
次に身体です。
これは非常に大きい。
しかし多くの人にとって、最も細っている軸でもあります。
なぜなら、身体は仕事の維持装置としてしか扱われやすいからです。
眠るのは稼働率のため。
食べるのは集中力のため。
歩くのは整えるため。
休むのは回復のため。
こうして身体は、ずっと仕事へ従属しています。
すると、身体がどうあるかそれ自体の価値が見えにくくなる。
身体軸を独立させるとは、
身体が少し楽であること
呼吸が少し深いこと
座っていて痛みが少ないこと
温かいものを飲んで落ち着くこと
を、それ自体で価値として数えることです。
翌日の成果にどう効くかを問わない。
まず、いま身体がどうあるかに価値を戻す。
これは小さく見えるかもしれません。
しかし、仕事能力一本で生きている人ほど、この軸の回復は大きい。
なぜなら、身体軸があるだけで
今日は仕事はだめだった
しかし身体は少し戻った
という読み方が可能になるからです。
その差は非常に大きい。
第三の軸 遊び
遊びは、仕事中心主義にとって非常に危険なものです。
なぜなら、遊びは成果を出さなくても成立するからです。
だから多くの人は、遊びをすぐ安全化します。
趣味にする。
学びにする。
投資にする。
人に説明可能な価値へ変える。
しかし、そこで遊びはかなり痩せます。
遊び軸を独立させるとは、
面白かった
だけで価値にすることです。
無駄だったかもしれない。
しかし面白かった。
下手でもよかった。
しかし楽しかった。
途中でやめた。
しかし触れたこと自体に価値があった。
こういう読み方です。
ここで大事なのは、
生産的な遊び
を目指さないことです。
生産的である必要はない。
遊びの独立性は、役に立たなくても残るところにあります。
その性質が、価値尺度の一本化をかなり緩めます。
第四の軸 美意識
美意識は見落とされやすい軸です。
しかし、かなり重要です。
美しいと思う。
好きだと思う。
しっくりくる。
品があると感じる。
音、言葉、光、余白、佇まい。
そうした感覚は、役に立つかどうかとは別に存在します。
しかし仕事中心の配線が強いと、美意識もすぐ機能化されます。
センスが仕事に活きる。
伝わり方が良くなる。
ブランディングになる。
そのように読まれやすい。
もちろんそういう面もあります。
しかし、美意識の軸はそれだけではない。
たとえば、
机の上が少し静かである。
好きな器で飲む。
言葉の調子に自分なりの品を持つ。
音をきれいだと思う。
空の色を見る。
こうしたものは、成果を出すためでなくても価値があります。
しかもこの軸は、仕事がうまくいかない日にも比較的残りやすい。
だから、かなり強い固定点にもなりうる。
美意識軸は、
何が好きか
何が美しいと感じるか
を、成果の外で残す軸です。
これは働くかどうかに左右されにくい。
だから多元化に役立ちます。
第五の軸 学び
学びもまた、仕事化しやすい軸です。
第182話で見たように、読書はすぐインプットになります。
しかし、学び軸を独立させるとは、
役に立つために学ぶ
だけにしないことです。
わからなかった。
しかし面白かった。
考えが少し広がった。
まだ使えない。
しかし何か残っている。
こうした学びです。
これは仕事への直接接続がなくても価値になる。
ここで重要なのは、学びをすぐ成果に変えないことです。
学んだ。
では何に使えるか。
ではなく、
学んだ。
それだけで価値がある。
この位置が必要です。
もちろん、仕事に活きる学びもある。
それを否定しません。
しかし、それだけしかない状態をやめる。
ここが大切です。
学びが独立軸になると、仕事の評価とは別に
自分の世界が少し広がっている
という感覚が残ります。
それは非常に大きな支えになります。
軸は「独立して数える」必要がある
ここで最も重要な実務上のポイントを置きます。
軸はあるだけでは足りません。
独立して数える必要があります。
たとえば、
今日は仕事はうまくいかなかった。
しかし、身体は少し楽だった。
誰かと無理なく話せた。
好きな音を聴いて少し戻れた。
本を数ページ読んで何か残った。
このように、別々に数える。
多くの人は、ここでまた一括採点をします。
しかし仕事がだめだったから全部だめ。
これでは多元化になりません。
軸が複数あっても、最後に総合点で仕事が勝ってしまうからです。
だから必要なのは、
総合点を出さない
ことです。
今日は仕事軸は曇った。
しかし身体軸は少し良かった。
関係軸も少し残った。
それでいい。
合算して一つの点数にしない。
ここがかなり重要です。
軸ごとに「最低限でよい」を持つ
独立軸を作る時にやりがちな失敗があります。
それは、各軸にも高い理想を入れてしまうことです。
関係なら深く安定していなければ。
身体なら常に整っていなければ。
遊びなら純粋でなければ。
美意識なら洗練されていなければ。
学びなら深くなければ。
これではまた苦しい。
だから各軸には
最低限でよい
を置きます。
関係なら、少し無理せず話せたで十分。
身体なら、呼吸が少し楽で十分。
遊びなら、少し面白かったで十分。
美意識なら、少し好きだと思えたで十分。
学びなら、一文残ったで十分。
このくらいでよい。
なぜなら、ここで必要なのは理想的な多彩さではなく、
仕事一本でしか自分を読めない状態を崩すこと
だからです。
各軸は、小さくても独立していれば強い。
高水準である必要はありません。
軸を仕事の補助線に戻さない
価値尺度の多元化で最も多い失敗は、せっかく作った軸をまた仕事へ戻してしまうことです。
身体を整える。
しかし翌日の仕事のため。
関係を大事にする。
しかし仕事の安定のため。
学ぶ。
しかしキャリアのため。
遊ぶ。
しかし創造性向上のため。
美意識を持つ。
しかし発信力のため。
こうなると、独立軸はすべて補助線へ戻ります。
補助線であることが悪いのではありません。
現実には交差します。
しかし、全部が最終的に仕事へ従属するなら、多元化ではない。
だから、この問いが必要です。
それは、仕事に何も役立たなくても残したいか。
この問いです。
残したいなら、独立軸である可能性がある。
残したくないなら、まだ補助線です。
そこを見分けることが大切です。
多元化は「肩書きを増やす自己演出」ではない
ここで、このプロトコルで扱わないことを明確にします。
それは、肩書きを増やすだけの自己演出です。
仕事以外にも顔を持つ。
複数の肩書きを名乗る。
それ自体は悪くありません。
しかし、それが
私はこんなに多面的です
という外向きの演出だけで終わるなら、価値尺度の多元化とは少し違う。
なぜなら、それもまた評価対象になりやすいからです。
多才であること。
多面的であること。
豊かな肩書きを持つこと。
そうしたものが新しい能力競争になることがあります。
それでは、一本化が複数化しただけです。
苦しさの構造はあまり変わらない。
このプロトコルの目的は、見せる多元性ではありません。
自分の内部で、価値の窓が複数開いていることです。
外に説明できなくてもよい。
肩書きにならなくてもよい。
そのくらいの静かな軸の方が、実は強い。
軸は「育てる」より先に「認める」
多元化というと、新しい軸を育てなければと思いやすい。
趣味を始める。
美意識を磨く。
運動を習慣化する。
関係を深める。
もちろん、それらが助けになることはあります。
しかし、最初に必要なのは
育成
より
認識
です。
すでにある軸を認める。
少しでも残っている身体感覚。
少しでも好きだと思えるもの。
少しでも安心できる関係。
少しでも楽しいこと。
少しでも面白い学び。
まず、それを
価値として数えてよい
と認める。
ここから始まる。
多くの人は、軸がないのではありません。
数えていないのです。
仕事軸だけを数え、他を参考値に落としている。
だから、最初の手順は
別軸を増やす
よりも
別軸を独立に数える
です。
この違いは大きい。
プロトコル12の出力は「自分の独立軸を三つ言えること」
今回の出力を明確にします。
プロトコル12で手に入れるべきものは、
自分の独立軸を三つ言えることです。
たとえば、
身体。
関係。
美意識。
でもよい。
遊び。
学び。
身体。
でもよい。
とにかく三つ。
そして、それぞれについて
仕事に役立たなくても残したい理由
を一言で言えること。
それが重要です。
理由は大きくなくてよい。
落ち着くから。
好きだから。
少し楽になるから。
何かが戻るから。
それで十分です。
ここに立派な理念は要りません。
独立して数えられることが重要なのです。
プロトコル12の最小実装
この回を読んだあと、最小限やることは一つです。
最近一日を思い返し、仕事以外で
少しでも価値として数えてよいもの
を三つ拾うことです。
少し楽に呼吸できた。
誰かと無理なく話せた。
好きな音を聴いた。
空の色がよかった。
少し面白い文章に出会った。
この程度で十分です。
その三つを、仕事の補助線にせず、そのまま別軸として数える。
今日は仕事はだめだった、しかしこれらはあった。
この読み方を一回やる。
それがプロトコル12の入口です。
このシリーズの立場
ここでも、主題は同じです。
掴まず。
仕事能力一本に、自分の価値を預けすぎない。
抗わず。
仕事軸が曇った日に、すぐ総合点で自分を無価値扱いしない。
流れとともに。
関係へ戻る。
身体へ戻る。
遊びへ戻る。
美意識へ戻る。
学びへ戻る。
そうやって、価値の窓を複数持ち続ける。
プロトコル12。
価値尺度の多元化。
これは多趣味になるための技法ではありません。
仕事が揺れた日に存在まで一緒に落ちないよう、価値の独立軸を設計するための運用です。
独立軸が少しでもあると、人はようやく
仕事の勝敗
と
自分の全部
を別々に扱えるようになります。