"掴まず、抗わず、流れとともに" 第179話
前回、第178話では、「感情労働のコストを下げる」を扱いました。
笑顔。
丁寧さ。
謝罪。
気遣い。
そうしたものを無限の人格支出として使い続けるのではなく、必要十分へ戻すこと。
丁寧さをゼロにするのではなく、最小構成を見抜き、熱量の持ち出しを一段下げること。
それが、感情労働による静かな消耗を減らすための運用でした。
しかし、感情を使いすぎることと並んで、現代の仕事で非常に強い負荷になっているものがあります。
それが「参加の仕方」です。
主体的であれ。
改善提案を出せ。
自分ごととして捉えろ。
巻き取れ。
推進しろ。
オーナーシップを持て。
この種の言葉は、一見すると前向きです。
組織をよくする。
自分も成長する。
問題を放置しない。
その意味では、全面的に間違っているわけではない。
しかし、ここには一つ大きな罠があります。
それは、参加がそのまま人格投資になりやすいことです。
そこで今回の主題はこれです。
プロトコル8。
意欲の強制から降りる参加の仕方。
結論を先に言います。
問題は、参加することそのものではありません。
問題は、参加がいつのまにか
「私はこの仕事をどこまで自分の人生として引き受けるのか」
という人格の契約へ変わっていることです。
このプロトコルの役割は、主体性をゼロにすることではありません。
また、シニカルに全部を拒否することでもない。
必要なのは、提案、関与、責任の三つを分け、役割の範囲で参加することです。
つまり、「新米経営者ごっこ」から降りる。
しかし、仕事の一部としての参加は残す。
その運用を作ることです。
なぜ人は「新米経営者ごっこ」を引き受けてしまうのか
現代の職場では、単に指示された作業をこなすだけの人間より、主体的に動ける人間が高く評価されやすい。
自分で考える。
提案する。
改善する。
課題を拾う。
巻き取る。
この流れ自体には合理性があります。
問題は、それがどこで仕事上の参加を超え、人格的な全投資になるかです。
責任感の強い人ほど、ここで深く引き受けやすい。
自分が気づいたのなら自分がやるべきだ。
改善案があるなら自分が進めるべきだ。
場が止まるくらいなら自分が巻き取るべきだ。
こうして参加は、役割ではなく moral obligation、つまり道徳的義務のような重さを持ち始める。
すると、休日も頭から離れない。
失敗はそのまま人格の失敗になる。
仕事の勝敗が、自分の価値の勝敗のように感じられる。
ここで第161話の「掴み」と第177話の「成果と人格の混線」が、参加のレベルで再発します。
つまり「新米経営者ごっこ」とは、立場は従業員のままなのに、心理だけ経営者の全責任を先取りしてしまう状態です。
ここが非常に危ない。
参加をやめるのではなく、参加の単位を変える
ここで重要なのは、参加そのものを全否定しないことです。
全部どうでもいい。
自分には関係ない。
最低限だけやる。
そういう方向へ振れると、今度は別の硬さが生まれます。
実際、仕事の中では提案した方がよいこともある。
改善した方が楽になることもある。
周囲と協力した方が現実的なこともある。
だから問題は参加の有無ではありません。
参加の単位です。
人格で参加するのか。
役割で参加するのか。
ここを分ける必要があります。
人格で参加すると、
気づいたこと全部に責任を感じる。
役割で参加すると、
自分の範囲で出せる提案を出し、自分の範囲で引き受ける。
この違いは大きい。
前者は際限なく膨張する。
後者には上限がある。
プロトコル8がやるのは、この上限の回復です。
提案は「所有権」ではなく「提出物」として扱う
参加型経営の現場で最も起きやすい混線の一つが、提案を出した瞬間に、その提案全体の所有権まで抱えてしまうことです。
自分が言い出した。
だから自分が最後までやるべきだ。
自分が気づいた。
だから自分が責任を持つべきだ。
この流れです。
しかし提案は、本来、提出物です。
一つの視点。
一つの改善案。
一つの論点。
それ以上ではない。
提案を出したことと、その実装責任を全部持つことは違う。
ここを分ける必要があります。
だから提案の出し方も変える。
「こうすべきです。やります」
ではなく、
「こういう改善余地があります。採用するなら担当と優先順位を決めたいです」
という出し方にする。
これだけでかなり違います。
提案と引き受けを同時に出さない。
提案は提出。
実装責任は別途決める。
この運用が、人格投資を減らします。
関与範囲を曖昧にしない
意欲の強制が強い現場ほど、「少しだけ関わる」が難しくなります。
会議に出た。
意見を言った。
少し整理した。
すると自然に、その後の進行役まで回ってくる。
気づけば、関与範囲が膨張している。
この膨張が起きるのは、範囲が曖昧だからです。
だから必要なのは、関与の上限を先に持つことです。
たとえば、
論点整理まではやる。
しかし実装のオーナーは持たない。
一次案の作成まではやる。
しかし運用定着までは持たない。
会議で懸念を出す。
しかし、それを自分が巻き取るとは言わない。
こういう線引きです。
ここで大事なのは、関与範囲を気分で決めないことです。
その場の空気で「まあ自分が」と言い始めると、必ず膨張します。
だから、自分はどこまでなら参加し、どこから先は役割外として戻すのか。
それを自分の中で先に決めておく。
この事前の輪郭が、かなり効きます。
責任の引き受け上限を持つ
関与範囲と並んで必要なのが、責任上限です。
これは少し似ていますが、違います。
関与範囲は「どこまで手を出すか」。
責任上限は「どこまで結果を自分のものとして背負うか」です。
たとえば、提案が通らなかった。
そこで
自分の力不足だ
と全部を背負う必要はない。
提案は出した。
材料も出した。
しかし最終判断は別のレイヤーにある。
ここで止める必要があります。
あるいは、改善案の一部がうまく動かなかった。
そこに対して
自分が関わったのだから全部自分の失敗だ
と背負いすぎない。
自分の責任範囲はどこまでか。
相手の運用、組織の事情、優先順位、リソース不足、そうしたものまで全部を飲み込まない。
責任を引き受けることと、責任の総量を自分一人で背負うことは違います。
この上限がないと、参加するたびに自己価値が削られます。
逆に上限があると、参加しながら壊れにくくなります。
主体性を下げることは、手を抜くことではない
ここで非常に多い誤解を解いておきます。
意欲の強制から降りる、と言うと、
主体性を下げることのように聞こえる。
そして主体性を下げることは、手を抜くことのように感じられやすい。
しかし、これは違います。
ここで下げたいのは、主体性ではなく、主体性に混ざっている人格投資です。
役割として考える。
必要なら提案する。
関与する。
しかし、自分の存在価値まで同時に賭けない。
ここを戻すだけです。
むしろ、人格投資が減ると参加は安定します。
全部を自分ごとにしないから、継続しやすい。
すべての勝敗を自己価値へ変換しないから、長く関われる。
つまり、意欲の強制から降りることは、働かなくなることではありません。
役割の範囲で持続可能に働くことです。
「気づいた人がやる」の自動化を止める
参加型の現場では、よく
気づいた人がやる
が暗黙のルールになります。
一見すると合理的です。
しかし、これは非常に危険です。
なぜなら、気づきやすい人、責任感の強い人、放置できない人へ、仕事が自己増殖するからです。
だから、このルールをそのまま飲まないことが大切です。
気づいた。
しかし、すぐ自分が巻き取らない。
まず共有する。
論点として出す。
担当を決める。
優先順位を確認する。
この一手間が必要です。
つまり、
気づく
と
背負う
を切り離す。
これがプロトコル8の核心の一つです。
気づく力は失わなくてよい。
しかし、それを即責任化しない。
ここができると、現場への参加の仕方がかなり変わります。
提案のテンプレを持つ
ここで、前回の言語化テンプレともつながる形で、参加のテンプレを置きます。
これはかなり使えます。
「改善余地があると思います。必要なら論点整理まではできます。」
「気になる点があります。対応の要否と担当は別途決めたいです。」
「この案は出せます。ただ、運用責任まで持つ前提ではありません。」
「やるなら優先順位と担当範囲を明確にしたいです。」
こうした言い方です。
ポイントは、
提案
と
引き受け
を一つの文で結ばないことです。
また、
やらない
で終えるのでもなく、
自分が出せる単位だけを明確にすることです。
これなら、シニカルでもない。
しかし、自分の人格を全部乗せもしない。
参加をゼロにせず、全投資から降りるための言語化です。
よくある失敗1 主体性を全否定してしまう
ここでよくある失敗を一つ見ます。
これまで巻き取りすぎてきた人ほど、反動で
もう何も提案しない
もう何も気づかないふりをする
という方向へ行きやすい。
しかし、それは別の極端です。
主体性を全否定すると、現実には仕事がしにくくなることもあります。
また、自分の感覚まで鈍くしようとしてしまう。
そうなると、結局また別の不自然さが出る。
だから必要なのは全否定ではありません。
提案はする。
しかし所有権を抱えない。
参加はする。
しかし上限を持つ。
そこです。
よくある失敗2 責任上限を決めずに善意で入り続ける
もう一つの失敗は、善意のまま入り続けることです。
少し手伝うだけ。
少し整理するだけ。
少し伴走するだけ。
しかし、その「少し」が積み重なると、実質的に責任者になっている。
これは中間管理職化の入口でもあります。
善意は悪くありません。
しかし、責任上限を決めない善意は、自分を焼きやすい。
だから善意の前に上限を置く。
何回までか。
どこまでか。
どのレイヤーまでか。
それを決めてから入る。
この順番が必要です。
プロトコル8の出力は「自分の参加上限を一文で言えること」
今回の出力を明確にします。
プロトコル8で手に入れるべきものは、
自分の参加上限
を一文で言えることです。
たとえば、
論点整理まではやるが、実装責任は持たない。
提案は出すが、担当と優先順位が決まらない限り巻き取らない。
一次対応までは関わるが、継続運用は別担当に戻す。
このような形です。
この一文があると、参加のたびに自分の人格で全部判断しなくて済む。
そこが大きい。
自分の中に型があると、空気に流されにくくなります。
プロトコル8の最小実装
この回を読んだあと、最小限やることは一つです。
最近、自分が
言い出したから最後まで背負ってしまった案件
を一つだけ思い出すことです。
そして、その中で
提案
関与
責任
のどこが混ざっていたかを分けてみる。
たとえば、
論点を出しただけなのに、運用責任まで持っていた。
改善案を言っただけなのに、進行役を引き受けていた。
少し手伝っただけなのに、結果全体を自分の失敗として背負っていた。
そこが見えれば十分です。
そのうえで、一つだけ新しい一文を作る。
自分はどこまで参加するか。
それを短く決める。
それがプロトコル8の入口です。
このシリーズの立場
ここでも、主題は同じです。
掴まず。
主体性やオーナーシップに、自分の人格価値まで預けすぎない。
抗わず。
巻き取りすぎたあとで、また自分を責めて理想の主体的人間へ鍛え直そうとしない。
流れとともに。
提案を出す。
しかし所有権は抱えない。
関与する。
しかし範囲を決める。
責任を持つ。
しかし上限を持つ。
そうやって、参加の仕方を役割の中へ戻していく。
プロトコル8。
意欲の強制から降りる参加の仕方。
これは無気力になるための技法ではありません。
参加を続けながら、自分の人生ごと仕事へ飲み込まれないための運用です。
参加の上限が見えるようになると、人はようやく
「働くこと」と「全部を賭けること」
を別のものとして扱えるようになります。