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"仕事以外の自分"が育たない構造を理解する

"掴まず、抗わず、流れとともに"  第154話


前回、第153話では、なぜ私たちは肩書きがないと名乗りにくいのかを見ました。
仕事の名前は、能力、所属、役割、社会参加の証明をまとめて引き受けてしまう。
だから肩書きは便利であり、同時に危うい。
それが自分の輪郭のほとんどすべてになると、仕事が揺れたとき、自分の輪郭まで薄くなる。
そこまで見てきました。

第154話では、そのさらに奥にある問題を扱います。

なぜ仕事中心の価値配線の中では、仕事以外の自分が育ちにくくなるのか。
なぜ趣味、関係、身体感覚、静かな時間、何でもない営みが、ただの余暇ではなく、自分の多層性を支える土台なのか。
そして、その土台が痩せると、なぜ人は仕事の揺れにこれほど脆くなるのか。

結論を先に言います。

仕事以外の自分が育たないのは、単に忙しいからだけではありません。
仕事が意味、価値、成長、承認、名乗りの中心を独占すると、仕事の外にある時間や営みが「本筋ではないもの」に見え始めるからです。
その結果、仕事の外の自己は、育つ前に細る。
細った自己は、仕事が順調な間は目立たない。
しかし仕事が揺れた瞬間、支えるものの少なさとして一気に露出します。

自分は、本来もっと多層的なはずだった

人は本来、ひとつの役割だけでできているわけではありません。
働く人である前に、感じる人です。
考える人です。
誰かと関わる人です。
何かを好きになる人です。
疲れる人でもある。
休む人でもある。
美しいものに足を止める人でもある。
くだらないことで笑う人でもある。
何も生まない時間の中で、少しずつ回復していく人でもある。

つまり自己とは、本来かなり多層です。
仕事の自己。
関係の自己。
身体の自己。
感覚の自己。
遊びの自己。
沈黙の自己。
まだ言葉になっていない自己。
それらが重なって、ひとりの人間の厚みを作っている。

しかし仕事中心の社会では、この厚みがだんだん薄くなります。
仕事に関係ない層が、「なくても困らないもの」に見えやすいからです。
その見え方が、まず危ない。

仕事の外は、なぜ「ついで」になってしまうのか

仕事が人生の中心に来ると、仕事の外の時間は自然に序列化されます。

仕事は本番。
仕事の外は調整。
仕事は意味のある時間。
仕事の外は補助。
仕事は成長の場。
仕事の外は息抜き。
仕事は社会につながる場所。
仕事の外は私的で副次的なもの。

この序列ができると、仕事以外の時間の扱い方が変わります。
趣味は、余裕がある時だけのものになる。
関係は、忙しくなれば後回しになる。
身体は、壊れない程度に維持する対象になる。
静かな時間は、暇になったら取るものになる。

つまり、仕事以外の自己を育てるはずの場が、どれも「仕事のあとに残った余白」でしかなくなる。
ここが問題です。
余白でしかないものは、いつでも削られる。
削られ続けたものは、当然育ちません。

育たないということは、消えることとは少し違う

ここで大事なのは、「仕事以外の自分が育たない」というのは、最初から何もないという意味ではないことです。
ある。
しかし育っていない。
この違いは大きい。

本を読むのは好きかもしれない。
景色を見ると落ち着くかもしれない。
身体を少し動かすと気持ちが戻るかもしれない。
誰かとゆっくり話すと、自分が少し戻るかもしれない。
そうした感覚は残っていることが多い。
しかしそれが、生活の中心を支える層にまでは育っていない。

なぜなら、その時間に十分な重みを与えてこなかったからです。
重みを与えないとは、時間をかけないということだけではありません。
意味を認めないということでもあります。

これはただの息抜き。
これは本筋ではない。
これは仕事の役には立たない。
こうした扱いが続くと、その営みは自分の核に近づけません。
いつまでたっても「余暇の断片」のままです。
すると、いざ仕事が揺れたとき、そこへ帰ろうとしても、まだ帰れるほど厚くなっていない。
それが「育っていない」という状態です。

趣味は、娯楽というより自己の別層を育てる場である

仕事中心の価値配線の中では、趣味はしばしば軽く見られます。
あってもいい。
しかし本気のものではない。
時間がある人の贅沢。
仕事がちゃんと回ってからやるもの。
そういう位置づけになりやすい。

しかし本当は、趣味は単なる暇つぶしではありません。
趣味とは、自分が何に時間を使いたいかを知る場です。
何に心が動くかを知る場です。
成果に変換しなくても、自分がそこに留まりたくなるものを知る場です。
つまり趣味は、役に立つかどうかをいったん外して、自分の感覚を育てる場所です。

この意味で、趣味はかなり重要です。
役立たないことを大事にする力。
回収されない時間を持つ力。
何かのためではなく、それ自体として好きである力。
それらは、仕事中心の価値配線に対する大きな対抗軸になります。

しかし趣味が「ただの息抜き」に格下げされると、その力は痩せる。
仕事に戻るためのガス抜きになってしまう。
すると趣味は自己の別層を育てる場ではなく、仕事を続けるための補助装置になります。
ここでもまた、手段と目的の反転が起きているのです。

関係もまた、仕事以外の自己を育てる

人は、ひとりで自己を作っているわけではありません。
誰といると安心するか。
どんな会話でほどけるか。
どういう関わりの中で、役割ではない自分に戻れるか。
そうしたことも、自分の別の層を育てています。

しかし仕事中心の生き方では、人間関係まで仕事の論理に引き寄せられやすい。
役に立つ関係。
気を遣う関係。
ネットワークとしての関係。
情報交換になる関係。
将来につながる関係。
そうした言葉で関係を読む癖が強くなる。

すると、ただ一緒にいて落ち着く。
ただ何でもない話ができる。
ただ沈黙を共有できる。
そういう関係の価値が見えにくくなる。
しかし本当に人を支えるのは、多くの場合こちらです。

役に立つかどうかではない関係。
成果を生まなくても大事な関係。
説明しなくても通じる関係。
そこでは人は、仕事上の評価や肩書きから少し離れて存在できます。
つまり関係は、自己の別の層を育てる場でもある。
それが細ると、人はますます仕事の顔でしか生きにくくなります。

身体の自己が痩せると、人生が頭の中だけになる

仕事以外の自己が育たない問題の中で、見落とされやすいのが身体です。
しかしこれはかなり大きい。

仕事中心の生活では、身体はしばしば手段として扱われます。
壊れないようにする。
集中力を保つ。
生産性を下げない。
そうした目的で管理される。
第127話で、回復が管理されると回復は仕事になると書きました。
身体も同じです。

本当は、身体は役に立つ以前に、生きている感覚の土台です。
風が気持ちいい。
肩がこわばっている。
歩いていると少し落ち着く。
眠い。
寒い。
呼吸が浅い。
このような感覚は、何も生んでいないように見えて、自分が今どうなっているかを知らせています。

ところが身体が仕事のための維持装置になると、そうした感覚は二次的になります。
結果、人は頭の中でばかり生きるようになる。
役割、期待、評価、段取り、比較。
そうしたものばかりが前に出て、身体に戻る回路が細る。
すると、自分がどれだけ疲れているか、何を無理しているか、何がもう嫌なのかが見えにくくなります。

仕事以外の自己を育てるとは、身体の自己を取り戻すことでもあります。
役に立つ体ではなく、生きている体として感じ直すことです。

静かな時間がないと、自分の声が育たない

さらに重要なのが、静かな時間です。
何かに追われない時間。
何かへ変換しなくていい時間。
誰かに見せなくていい時間。
そうした時間がないと、自分の声は育ちにくい。

仕事の中では、多くの場合、外側の要求が強い。
何を求められているか。
何を返すべきか。
何が足りないか。
どう応えるか。
そうした声で頭が満ちる。
それ自体は現実です。
しかし、そればかりだと「自分は本当はどう感じているか」が後ろへ退く。

静かな時間は、その後ろへ退いた感覚を少し前に戻す場です。
自分は何が嫌だったのか。
何に惹かれているのか。
何に疲れているのか。
どこから先は渡したくないのか。
そうしたことは、たいてい騒がしさの中では見えません。

しかし仕事中心の価値配線の中では、静かな時間は非常に削られやすい。
何も生まないからです。
説明しにくいからです。
怠けに見えやすいからです。
その結果、自分の声を聞く土壌ごと痩せていく。
ここまで来ると、仕事以外の自己が育たないのは当然です。

仕事以外の自己が薄いと、仕事が揺れたとき全損しやすい

ここで、この問題がなぜこれほど重要なのかがはっきりします。
仕事以外の自己が十分に育っていないと、仕事の揺れがそのまま人生全体の揺れになります。

仕事がうまくいかない。
すると、自分にはもう価値がないように感じる。
肩書きが揺れる。
すると、何者でもなくなったように感じる。
評価が下がる。
すると、生きる意味まで薄れたように感じる。

なぜそんなに大きく揺れるのか。
それは仕事が大きいからだけではありません。
他の層が薄いからです。

趣味の層。
関係の層。
身体の層。
静かな時間の層。
何でもないが確かに好きなものの層。
それらが厚ければ、仕事が揺れても、全部が一緒に崩れるわけではない。
しかしそれらが育っていないと、仕事がほとんど唯一の足場になる。
すると一か所の揺れが全体の揺れになる。
これが、仕事中心主義の脆さです。

「仕事の外」は、逃避ではなく分散である

ここで誤解を避けたいのですが、仕事以外の自己を育てると言うと、
仕事から逃げることのように聞こえるかもしれません。
しかしそうではありません。

仕事の外に自分を持つことは、仕事を軽く扱うことではない。
むしろ仕事を一か所に背負わせすぎないための分散です。
第147話で、期待を軽くするとは意味の置き場所を分散させることだと書きました。
同じように、自己も分散していた方が壊れにくい。

仕事にも自分がいる。
しかしそれだけではない。
誰かと話している自分もいる。
何かに見惚れている自分もいる。
うまく言えないが大切にしているものがある自分もいる。
そうやって自己の層が複数あると、仕事は大事でありながら独裁者ではなくなる。

育てるとは、特別なことを増やすことではない

「仕事以外の自分を育てる」と言うと、
何か立派な趣味を持たねばならないとか、
意識の高い活動を始めねばならないとか、
そういう話に聞こえるかもしれません。
しかし違います。

大きなことではなくていい。
少し長く留まれるもの。
少し心がほどけるもの。
少しだけ役に立たなくてよいもの。
それで十分です。

同じ音楽を何度も聴く。
植物を見る。
短い散歩をする。
湯気を見ている。
誰かと意味のない話をする。
字を書く。
何かを集める。
静かに座る。
そういうことでもいい。

重要なのは、それを「ただの余暇」として切り下げないことです。
それは自己の別層を育てている。
その感覚を取り戻すことが大切です。

このシリーズの立場

ここでも、主題は同じです。

掴まず、抗わず、流れとともに。

仕事以外の自分が育っていないと気づいたとき、人は二つの極端へ振れやすい。

もっと仕事に没入して、外の不足を仕事の充実で埋めようとする。
あるいは、仕事を敵にして、外側だけを正義の場所にしようとする。

前者は、仕事の独占を深める。
後者は、現実の役割や責任との関係を粗くしやすい。
どちらも長くは持ちません。

必要なのは、仕事を捨てることではありません。
仕事の外にある自己の層を、少しずつ厚くすることです。
役に立たなくていい時間。
成果にならなくていい営み。
肩書きで説明しなくていい関係。
そうしたものを、自分の中で少しずつ格上げしていく。
ただの余白ではなく、自己を支える本体の一部として扱い直す。

脱改造は、ここからも始まります。
仕事の外へ逃げることではない。
仕事の外にも、自分がきちんと育っていてよいと認めることです。