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人間の価値が能力に一本化される怖さ

"掴まず、抗わず、流れとともに"  第152話


前回、第151話では、なぜ「仕事ができない」という言葉がこれほど深く刺さるのかを見ました。
それは単なる業務上の評価ではなく、人間の価値そのものへの判決のように響きやすいからでした。
つまり現代社会では、仕事能力が一能力を超えて、存在の中心尺度にまで膨らんでいる。

第152話では、その話をもう一段広げます。

問題は、仕事だけではありません。
もっと深いところで、人間の価値そのものが「能力」に一本化されつつある。
できるか。
速いか。
役に立つか。
変換できるか。
成果につながるか。
そうした尺度が、人を見る最も強い物差しになっている。

この一本化が進むと、何が起きるのか。
どんな価値が見えなくなっていくのか。
そして、なぜそれがここまで自然なことのように思えてしまうのか。

結論を先に言います。

能力が大事であることと、人間の価値が能力で決まることは、まったく別です。
しかし現代では、その二つが静かに混同されやすい。
その結果、人は「できる自分」でしか自分を支えにくくなり、
できない時期、遅い時期、迷う時期、弱っている時期に、
自分の存在全体が痩せたように感じてしまう。
ここに、能力主義の深い苦しさがあります。

能力は本来、道具に近いものだった

まず最初に、能力というものの位置を取り戻しておきます。

能力とは本来、何かを行う力です。
ある場で役に立つ。
ある課題に応じられる。
ある関係の中で機能する。
つまり、かなり文脈的なものです。

話す力。
作る力。
読む力。
考える力。
支える力。
整える力。
判断する力。
待つ力。
これらは全部、能力です。
そして本来、能力は場面との関係で意味を持つ。

この場では活きる。
この場ではまだ弱い。
この役割には向いている。
この配置では発揮されにくい。
そういう読み方が、本来は自然です。

ところが現代では、能力が文脈から切り離されやすい。
能力が、その人の全体を代表する札のように扱われ始める。
優秀な人。
できる人。
使える人。
地頭がいい人。
伸びる人。
逆に、
要領が悪い人。
鈍い人。
伸びない人。
使えない人。
そうした札が、一人の人間の上に貼られる。

ここで能力は、役割の道具ではなく、存在価値の等級になります。

一本化とは、何が起きていることなのか

「能力に一本化される」とはどういうことか。
それは、人を見る複数の窓が閉じて、ほとんど一つの窓だけが残ることです。

本来、人間の価値は一枚ではありません。
やさしさもある。
落ち着きもある。
ユーモアもある。
静かな誠実さもある。
他人を安心させる力もある。
美しいものを感じ取る感受性もある。
粘り強さもある。
壊れずに続ける力もある。
弱っている人のそばにいられる力もある。
何も急がずに待てる力もある。

しかし能力主義が強くなると、こうした複数の窓が細っていきます。
残るのは、
成果に変換できるか。
速く処理できるか。
役に立つか。
比較して優位か。
そういう窓ばかりになる。

すると、人は自分を見るときも、他人を見るときも、
ほとんど能力の窓だけを使うようになる。
これが一本化です。

一本化が怖いのは、他の価値が消えるからではありません。
見えなくなるからです。
見えないものは、ないもののように扱われる。
そこが苦しい。

なぜ能力は、こんなに強い物差しになったのか

理由は単純で、能力は比較しやすいからです。
数値にしやすい。
成果に結びつけやすい。
序列を作りやすい。
評価制度にも乗せやすい。
説明しやすい。
再配分しやすい。
つまり社会の運用に非常に向いている。

誰が速いか。
誰が稼ぐか。
誰が成果を出すか。
誰が伸びるか。
これらは組織にとって管理しやすい情報です。
だから能力は、個人の魅力や深みよりも、ずっと公的に扱いやすい。

さらに第131話以降で見てきたように、現代の仕事は成果だけでなく、感情、態度、主体性、意欲まで含んで評価される。
すると能力の意味も拡張される。
単なる技能ではなく、
感じよく動けるか。
空気を読めるか。
自己管理できるか。
期待に応えられるか。
そこまで含んだ広い「できる」が形成される。

こうして能力は、ただの技術ではなく、
社会における総合的な通行証のようになります。
通行証になったものは、当然、価値の中心へ来やすい。
それが一本化を加速させます。

能力主義は、一見すると公平に見える

能力に一本化が進むのは、それが一見すると公平だからでもあります。

家柄ではなく能力で見よう。
肩書きではなく実力で見よう。
年功ではなく成果で見よう。
こうした言葉には、たしかに正しさがあります。
不透明なコネや身分や空気ではなく、
実際にできるかどうかで評価する。
それ自体は、一つの健全さでもある。

だから能力主義は、とても強い。
不公平を是正する言葉としても語れるからです。

しかし問題は、そこから先です。
能力を評価に使うことと、
能力で人間価値の全体を決めることは違う。
にもかかわらず、この二つが混ざりやすい。

実力で見る。
そのつもりが、
実力のある人が価値のある人。
実力のない人は価値の低い人。
という読みへ滑っていく。
この滑りが、能力主義の本当の危うさです。

できる時の自分だけが、自分になる

能力に価値が一本化されると、人は「できる時の自分」でしか自分を支えにくくなります。

うまく話せる。
早く処理できる。
成果を出せる。
求められる役割を果たせる。
そういう時の自分なら、まだ安心できる。

しかし少し遅れる。
迷う。
疲れる。
合わない。
失敗する。
そういう時の自分は、急に頼りなく感じられる。
いや、頼りないというより「価値が落ちた」と感じやすい。

ここで問題なのは、
能力の上下があることではありません。
誰にでも得手不得手はあります。
時期によっても波はある。
問題は、その波をそのまま存在価値の上下として感じてしまうことです。

今日はうまくいかない。
それだけで済めばいい。
しかし一本化された社会では、
今日はうまくいかない自分 = 価値の低い自分
へ変換されやすい。
これでは、波を生きることができません。

「いまはできない」が許されなくなる

能力に一本化された世界では、能力が固定的な烙印にもなりやすい。
できるか、できないか。
伸びるか、伸びないか。
優秀か、そうでないか。
その見方が強いほど、途中の時間が痩せます。

まだ慣れていない。
いまは弱っている。
配置が合っていない。
違う形なら活きる。
少し時間が必要。
こうした読み方が細くなる。

すると「いまはできない」という状態が、
「本質的にだめだ」へ変換されやすい。
人間の時間性が失われるのです。

第144話で、自己実現が義務になると、途中であることが遅れに見えると書きました。
能力主義も同じです。
まだ途中であること。
いまは弱いこと。
いまは整っていないこと。
それらが、成長の一部ではなく、減点として読まれやすくなる。

これが進むと、人は「発展途上の自分」を持ちにくくなります。
未完成である自分を、
学びの途中ではなく、
劣った完成品のように感じてしまう。
これはかなり苦しい。

能力一本化は、弱さを「不要なもの」にしてしまう

もう一つ深刻なのは、能力主義が弱さや脆さの価値を極端に見えにくくすることです。

疲れやすい。
迷いやすい。
傷つきやすい。
遅い。
慎重すぎる。
立ち止まりやすい。
こうしたものは、能力中心の窓から見ると、
ほとんどマイナスにしか見えない。

しかし実際には、
慎重さが人を守ることもある。
遅さが丁寧さを生むこともある。
傷つきやすさが感受性になることもある。
迷いが浅い暴走を止めることもある。
疲れやすさが、無理な設計を早く察知させることもある。

つまり弱さは、単なる不足ではない。
別の読み方をすれば、大事なセンサーでもあります。
しかし能力に一本化された社会では、
そうした読み替えが起きにくい。
弱さはただの劣位になる。
すると人は、自分の弱さを消そうとする。
感じないようにする。
見せないようにする。
なかったことにする。
その結果、自分の読み取り装置まで削ってしまう。

第135話で、理不尽耐性が美徳になると、異常信号が麻痺すると書きました。
能力主義の一本化も、同じ方向へ働きます。
できることが善で、弱さが悪になると、
自分を守るための感覚そのものが、価値の低いものに見えてしまうのです。

人は、能力以外の価値で支えられている

ここで、見えなくなっているものを言葉にしておきます。

人間は、能力だけで支えられているのではありません。
むしろ、多くの場合、日常を本当に支えているのは別のものです。

その人がそこにいると落ち着く。
それだけで場が和らぐ。
説明しすぎずにわかってくれる。
急がずに聞いてくれる。
見栄を張らない。
雑に扱わない。
派手ではないが、ずっと誠実。
そういうものです。

しかしこうした価値は、能力主義の窓からは見えにくい。
成果になりにくい。
序列にしにくい。
履歴書に書きにくい。
KPIにも乗りにくい。
だから社会の公的な評価からこぼれやすい。

すると何が起きるか。
人は、自分の中のそうした価値を軽く見始める。
もっと速く。
もっと強く。
もっと結果へ。
そうやって、自分の一部を自分で切り捨てる。
これが一本化の悲しさです。

能力の物差しは、比較を止めにくい

能力に一本化された社会では、比較はほとんど自動化します。
なぜなら能力は、そもそも比較のために使いやすいからです。

あの人より速いか。
あの人より稼ぐか。
あの人より有能か。
あの人より市場価値があるか。
こうした比較は、気を抜くとすぐ始まる。

第145話から第149話で見た成功神話や期待の構造は、
この比較をさらに強めます。
成長しているか。
伸びているか。
可能性を活かせているか。
結果を出しているか。
そうした問いが、全部能力の比較へ流れやすいからです。

そして比較が続くと、人は現在地を安心して生きにくくなる。
いまの自分は途中か。
遅れているのか。
劣っているのか。
そういう視線で自分を常に見張り始める。

これは疲れます。
しかも厄介なのは、その疲れが「もっと能力を高めれば解決する」と思いやすいことです。
しかし実際には、物差しそのものが一本化されている限り、
比較は終わりません。
ここが、この章の中心です。

能力に一本化されると、「ただ存在していること」が痩せる

能力主義の最も深い問題は、
「何かができる」ことと、
「ただ存在している」ことのあいだにある差を消してしまうことです。

本来、人は何もしていないときにも存在しています。
疲れていても存在している。
迷っていても存在している。
うまくいっていなくても存在している。
何者かとして説明できなくても存在している。
その当たり前が、能力一本化の社会では細くなる。

何かができるから価値がある。
役に立つからいてよい。
成果を出すから認められる。
こうした感覚が強くなるほど、
「いま何もできていない自分」
「回復しているだけの自分」
「迷っている途中の自分」
そうした自分を、生きていてよい存在として感じにくくなる。

これはかなり深い傷です。
なぜなら、能力には波があるからです。
人生のどこかで、誰でもできない時期を通ります。
弱る時期もある。
遅れる時期もある。
そのたびに存在感覚ごと細るのだとしたら、人はずっと不安定になります。

では、能力なんてどうでもいいのか

もちろん、そうではありません。
能力は現実に大事です。
仕事にも必要ですし、誰かを支えるためにも要る。
学ぶこと、訓練すること、うまくなること、それ自体に意味もあります。

問題は、能力を軽んじることではありません。
能力の位置を取り違えないことです。

能力は大事。
しかし全体ではない。
能力は育てていい。
しかしそれが人間価値の総和ではない。
能力は状況を助ける。
しかし能力が低い時期に、人の存在が薄くなるわけではない。

この区別が必要です。
能力を現実の道具として扱いながら、
人間の価値そのものは別の層にも置いておく。
そうでないと、能力が揺れたときに自分全体が揺れてしまいます。

一本化をゆるめるには、価値の窓を増やすしかない

ここで、脱改造の方向が見えてきます。
一本化をやめるとは、能力を捨てることではありません。
価値の窓を増やすことです。

この人は速い。
しかしそれだけではない。
この人は慎重だ。
この人は場を荒らさない。
この人は壊れたものに気づく。
この人は深く考える。
この人は無理なものを無理だと感じ取れる。
この人は急がないことで守っているものがある。

そうやって、人を見る窓を増やす。
自分を見る窓も増やす。
能力の窓だけでなく、
関係の窓、身体の窓、美意識の窓、誠実さの窓、持続の窓、弱さの窓。
そうした窓が戻ってくると、
能力は大切でありながら、独裁者ではなくなる。

第129話で、問題は意味の置き場所だと書きました。
同じように、ここでは価値の置き場所です。
価値が能力に一点集中しているから苦しい。
ならば、少しずつ分散させるしかない。
それが、この章の基本動作です。

このシリーズの立場

ここでも、主題は同じです。

掴まず、抗わず、流れとともに。

能力に価値が一本化されて苦しいとき、人は二つの極端へ振れやすい。

もっと能力を高めて、そこで価値を取り返そうとする。
あるいは、能力なんて全部くだらないとして、学びや責任まで切ってしまう。

前者は、比較と自己裁判を深める。
後者は、現実を生きるための力まで痩せさせる。
どちらも長くは持ちません。

必要なのは、能力の位置を取り戻すことです。
能力は大事。
しかし全体ではない。
できる自分も自分。
できない時期の自分も、消えるわけではない。
そこを少しずつ体に戻していく。

脱改造は、ここからも始まります。
能力を否定することではない。
能力に、自分の全価値を独占させないことです。