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意欲の強制は人格の徴用

"掴まず、抗わず、流れとともに"  第138話


ここまで見てきた流れを、一度まっすぐ言い切ってしまいます。

現代の仕事は、手だけでは足りない。
頭だけでも足りない。
感情だけでも足りない。
最後には、意欲まで求めてくる。

きちんとやるだけでは足りない。
前向きにやること。
主体的にやること。
情熱を持ってやること。
自分ごととしてやること。
そこまで求められる。

第138話で扱うのは、この圧力です。

意欲の強制は、単なる働き方の問題ではない。
人格の徴用である。

なぜなら意欲とは、行動の外側ではなく、内側の火だからです。
その火を「出して当然」「足りなければ未熟」と扱い始めた瞬間、仕事は作業の要求を超えて、人の中心に手を入れ始める。

作業をこなすだけでは、なぜ足りなくなったのか

昔から、働くことには一定の規律が必要でした。
時間を守る。
役割を果たす。
約束した水準を満たす。
そこに特別な問題はありません。

問題は、それに加えてこうした要求が増えていくことです。

もっと前向きに。
もっと自発的に。
もっと熱量を持って。
もっと当事者意識を持って。
もっと自分の仕事として考えて。

ここでは、行動だけが見られているのではありません。
行動の背後にある姿勢まで採点されている。

同じ成果を出しても、嫌々やっているように見える人は評価が下がる。
同じ仕事でも、熱量を見せる人の方が高く評価される。
同じ責任を果たしても、前向きさを演出できる人の方が信頼される。

つまり、仕事は成果物だけでなく、意欲の表現まで含んだものへ変わっている。
ここで求められているのは、手順の遂行ではなく、気持ちの供給です。

意欲は、もともと自分のものだった

ここが決定的です。

技能なら、磨けばよい。
時間なら、配分すればよい。
労力なら、消耗として自覚しやすい。
しかし意欲は違う。

意欲とは、本来、何に心が動くかという自分の中心に属するものです。
やりたい。
面白い。
大事だと思う。
そこに自然に立ち上がる力です。

だから意欲は、本来、命令されるものではない。
出せと言われて出るものではない。
出なければ人格が劣ると決めつけられるようなものでもない。

ところが現代の仕事では、この最も内側にあるものが、職務要件に近づいていきます。

やる気を持ってください。
主体性を持ってください。
仕事を好きになってください。
自分ごと化してください。
情熱を持ってください。

ここで起きるのは、能力要求ではありません。
人格の徴用です。

徴用とは、何を意味するのか

徴用という言葉を強く感じる人もいるでしょう。
けれど、ここではかなり正確です。

徴用とは、本来自分の側に主権があるはずのものが、より大きな仕組みのために動員されることです。
第132話で感情に値札がつくと言いました。
第133話で笑顔が職能になると言いました。
第134話で人格を持ち込ませながら人格を禁じる自己矛盾を見ました。
そしてここでは、ついに意欲そのものが動員される。

やる気は本来自分の火なのに、組織の燃料として使われる。
前向きさは本来自分の向きなのに、職場の空気維持のために使われる。
情熱は本来自分の大切さに向かうものなのに、成果の加速装置として使われる。

このとき人は、仕事をしているだけではない。
自分の内側の火まで差し出している。

だから疲れる。
しかもその疲れは、普通の疲れより深い。
なぜなら削られているのが、単なる体力ではなく、自分の中心だからです。

意欲が評価項目になると、何が壊れるのか

意欲が評価項目になると、まず起きるのは順序の反転です。

本来は、意味があるから意欲が湧く。
面白いから前のめりになる。
納得できるから力が出る。
順序はこうです。

ところが強制される意欲では、順序が逆になる。

まず意欲を見せること。
その上で成果を出すこと。
納得は後回し。
意味は後回し。
とにかく前向きであること。

すると、内側の感覚と外側の表現がずれ始めます。

本当は納得していない。
本当はもう疲れている。
本当はこれ以上は抱えたくない。
それでも、意欲があるように見せる。

このずれは、長く続くほど危ない。
第122話でバーンアウトは断線だと言いました。
意欲の強制は、その断線を早めます。
なぜなら、意味がないのに意味がある顔をし続けるからです。

意欲の強制は、なぜそんなに見えにくいのか

ここで厄介なのは、意欲の要求が善い言葉で来ることです。

やる気を持とう。
前向きにいこう。
成長しよう。
主体的になろう。
仕事を楽しもう。

どれも単体では悪い言葉に見えない。
むしろ、励ましに見える。
だから反論しにくい。

しかし、ここには大きなねじれがあります。
意欲とは本来、結果として立ち上がるものなのに、それが先に要求される。
結果として湧くはずのものを、前提条件として差し出せと言われる。

これはかなり暴力的です。
意味があるから燃えるのではなく、燃えていることを先に証明しろと言われるのだから。

しかも意欲は、数値のようには測れません。
だから基準が曖昧になる。
曖昧だから、本人が自分で自分を追い立てる。

まだ熱量が足りないのではないか。
もっと前向きであるべきではないか。
自分は当事者意識が低いのではないか。
もっと本気で向き合うべきではないか。

この内面化こそが、意欲の強制の完成形です。

やる気が出ないことは、なぜすぐ人格の問題になるのか

意欲の強制が進んだ環境では、「やる気が出ない」は単なる状態では済みません。

疲れている。
納得できない。
意味が置けない。
そういう可能性は脇へ追いやられ、先にこう読まれます。

熱意が足りない。
責任感が足りない。
主体性が足りない。
成長意欲が足りない。

つまり、意欲の不足は能力不足ではなく、人格の薄さとして読まれやすい。
ここで第121話の改造が再び強く作動します。
能力が評価から存在価値へすり替わる。
その結果、「いま気持ちが動かない」が、「自分は価値が低い」へ変換される。

これはかなり危険です。
なぜなら、意欲が湧かない理由が構造の側にある場合でも、すべて自分の未熟さへ回収されるからです。

仕事の意味が崩れているのかもしれない。
理不尽が積み重なっているのかもしれない。
相互性や正当性が折れているのかもしれない。
それでも結論だけは、「もっと前向きになれ」になる。

この翻訳の雑さが、人を壊します。

意欲がある人ほど、吸われやすい

さらに皮肉なのは、本当に意欲がある人ほど、この仕組みに吸われやすいことです。

誠実にやりたい。
もっと良くしたい。
価値を出したい。
そう思う人ほど、意欲の徴用に引っかかりやすい。

なぜなら、その人たちには実際に火があるからです。
火があるから、それを見つけた組織は、もっと使いたくなる。

任せればやってくれる。
熱量があるから巻き取ってくれる。
当事者意識が高いから隙間を埋めてくれる。
責任感があるから最後まで抱える。

すると何が起きるか。
意欲があることが、追加徴用の入口になる。
誠実さがあることが、境界線を越えて頼られる理由になる。
好きで始めたことが、義務と期待で圧迫されていく。

第137話で、自分を経営資源として扱う危険を見ました。
ここではさらに一歩進みます。
意欲は資源であり、しかも最も高品質な資源として扱われる。
だから最も吸われやすい。

意欲の強制が、なぜバーンアウトに直結するのか

バーンアウトが単なる疲れでないことは、もう見てきました。
意味の断線である。
ここで意欲の強制がどうつながるか。

意欲は、意味と密接です。
意味があるから燃える。
納得できるから力が湧く。
大事だから踏ん張れる。
この接続が、本来の意欲です。

ところが意欲の強制では、意味がなくても燃えることを要求される。
納得していなくても前向きであることを求められる。
疲れていても情熱を切らさないことを期待される。

これは、配線に逆流を起こしているようなものです。
本来は意味から意欲へ流れるはずの電流を、意欲の演出でごまかそうとする。
ごまかしは一時的には効きます。
しかし長くは持たない。
どこかで空になる。

しかも空になったときにすら、こう言われる。

もっと前向きに。
もっと主体的に。
もっと自分ごとで。

これはほとんど、燃料切れの機械に「もっと気合いを出せ」と言っているのと同じです。
壊れるのは当然です。

好きな仕事ほど危ないのは、ここにある

ここで見落としたくないのが、好きな仕事や、意味を感じて始めた仕事ほど、この罠に深く入ることです。

好きだから、頑張れる。
意味があるから、踏ん張れる。
そのこと自体は悪くない。

しかし現代の仕事環境では、その好きや意味が、組織の資源として回収されやすい。

好きなんだから、もっとやれるだろう。
大事なんだから、もう一歩踏み込めるだろう。
本気なんだから、休日も考えられるだろう。
情熱があるなら、これくらい苦ではないはずだ。

こうして、内発的な意欲が、外側の期待によって外発的義務へ変質する。
好きだったものが、やがて重くなる。
大事だったものが、義務になる。
意味のあったものが、評価の場になる。

この変質が起きたとき、人は深く傷つきます。
なぜなら奪われるのが、単なる時間ではないからです。
自分が本当に大事にしていた火だからです。

「意欲がない」のではなく、「これ以上は渡せない」

ここで大事な言い換えを置きます。

やる気が出ない。
前向きになれない。
仕事に気持ちが入らない。
そのとき、すぐに「自分はダメだ」と結論しないことです。

それは、意欲がないのではないかもしれない。
これ以上は渡せない、という信号かもしれない。

もうこの運用には渡せない。
もうこの不公平には渡せない。
もうこの曖昧な期待には渡せない。
もうこの意味の置けなさには渡せない。

これは怠慢ではありません。
主権の残り火です。
まだ全部は徴用されていない、という最後の手応えです。

第129話で、意味が置けないことは欠陥ではなく情報だと書きました。
同じように、意欲が出ないこともまた情報です。
今の配線では、これ以上は流せない。
その情報を、自分への裁判に使わないこと。
そこが重要です。

意欲を捨てるのではなく、意欲の主権を取り戻す

ここでも、極端へ行かないことが大切です。
意欲そのものが悪いわけではありません。
やる気も情熱も、本来は生きる力です。
問題は、それが徴用されることです。

だから必要なのは、無気力になることではない。
意欲の主権を取り戻すことです。

何に熱を注ぐかを自分で決める。
どこまで差し出すかを自分で決める。
いつ休ませるかを自分で決める。
仕事に向ける火と、仕事の外に残す火を分ける。

全部を仕事に渡してしまうと、仕事が揺れたときに自分ごと揺れる。
だから意欲は、全部を預けない方がいい。
少し残す。
仕事の外にも火の置き場所を持つ。
人間関係でも、身体でも、美意識でも、遊びでも、静かな時間でもいい。
そこに火を逃がせると、徴用は少し弱まります。

このシリーズの立場

ここでも、主題は変わりません。

掴まず、抗わず、流れとともに。

意欲の強制に苦しむとき、人は二つの極端へ行きやすい。

もっと気合いを入れようとして、自分の内側の火をさらに搾り出す。
あるいは、もう何にも熱を持たないようにして、全部を冷やしてしまう。

前者は、自分の中心を削り切る。
後者は、回復だけでなく生きた力まで止める。
どちらも長くは持ちません。

必要なのはまず、意欲まで求められているという構造を見抜くことです。
仕事をしているだけではない。
気持ちまで差し出せと言われている。
だから苦しい。
だから空になる。
だから、努力の量の問題ではない。

そこが見えたとき、初めて少しずつ距離を作れるようになる。
全部を渡さない。
全部を燃やさない。
全部を仕事の意味に接続しない。
脱改造は、この火加減の回復から始まります。