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「自分=経営者」という幻想

"掴まず、抗わず、流れとともに"  第137話


自分の仕事は、自分で経営せよ。
自分の価値は、自分で高めよ。
自分の市場価値は、自分で守れ。
自分のキャリアは、自分で設計せよ。

こうした言葉は、現代ではごく自然に聞こえます。
むしろ前向きで、成熟していて、自立した人の言葉のように響く。
会社に依存しない。
誰かに命令されるだけではない。
自分の頭で考え、自分の責任で進む。
その姿は、一見するととても自由です。

けれど第137話で見たいのは、その自由の顔をした別のものです。

現代の働き方は、労働者にまで経営者の視点を持つことを求める。
しかもそれは、命令としてより、自立や成長の物語として浸透する。
そのとき人は、ただ働くのではなく、自分自身を経営対象として扱い始める。

これをここでは、「新米経営者という幻想」と呼びます。

会社員であっても、頭の中は経営者化していく

実際に会社を経営しているわけではない。
人を雇っているわけでもない。
最終的な意思決定権を持っているわけでもない。
それでも現代の職場では、働く人の頭の中に経営者的な視点が入り込みやすい。

この施策は費用対効果がどうか。
この行動は事業インパクトがあるか。
この時間の使い方は生産的か。
自分のスキルは市場価値につながるか。
自分の働き方は投資として回収可能か。

こうした見方自体は、合理性の一部です。
問題は、それが補助線ではなく、自己理解の中心になることです。

以前なら、仕事は生活の一部でした。
今は、生活全体が事業計画のように見えやすい。
学びは自己投資。
休息はコンディショニング。
人間関係はネットワーク。
趣味は発信資産。
経験はポートフォリオ。
失敗は成長機会。
空白時間でさえ、何かに活用できる余白として評価される。

ここまで来ると、人は自分の人生を生きるより、自分という事業体を運営し始める。

なぜこの幻想が魅力的なのか

この発想が広がるのは、単に支配のせいではありません。
たしかに魅力があるからです。

誰かに人生を預けなくてよい。
会社にすべてを依存しなくてよい。
自分の選択を、自分で引き受けられる。
頑張りが、自分に返ってくるように感じられる。

これは特に、不安定な時代には強い魅力を持ちます。
制度はあてにならない。
会社も永遠ではない。
社会も約束してくれない。
ならば自分を鍛え、自分を守り、自分を育てるしかない。
そう考えるのは、ごく自然です。

だから「自分を経営する」という考えは、ただの押しつけではなく、自己防衛の言葉としても機能します。
そこが厄介です。
支配は、しばしば自己防衛の顔をして入ってくる。

経営者の視点を持つことと、自分を経営資源にすることは違う

ここで大事な区別があります。

全体を見ること。
コストを意識すること。
価値の流れを考えること。
これは悪ではありません。
働く以上、一定の視野として必要な場面もあります。

しかし、それと「自分そのものを経営資源として扱うこと」は別です。

自分の疲労をコストとしてしか見ない。
自分の違和感を非効率としてしか見ない。
自分の学びを市場価値の増加としてしか見ない。
自分の時間を投資回収の対象としてしか見ない。
自分の感情を成果を妨げるノイズとしてしか見ない。

この段階に入ると、自分はもはや主体ではありません。
管理対象です。
しかも管理するのは自分自身です。
第125話で見た自己責任化が、ここでより洗練された形を取る。

上司に管理されるより前に、自分が自分を管理する。
会社に命じられるより前に、自分が自分へ命じる。
だから、この仕組みはとても静かです。
静かだからこそ深く入り込みます。

「成長」が、なぜ苦しくなるのか

本来、成長とは生きた動きです。
昨日できなかったことが、今日は少しできるようになる。
視野が広がる。
手触りが増える。
それは本来、喜びでもある。

ところが新米経営者の幻想の中では、成長の意味が変わります。

成長し続けなければ価値が落ちる。
学び続けなければ市場に置いていかれる。
止まれば劣化する。
休めば競争に負ける。

こうなると、成長は自由な発達ではなく、価値維持の義務になります。
学びたいから学ぶのではない。
学ばないと危ないから学ぶ。
面白いから広げるのではない。
止まると無価値になりそうだから広げる。

これはかなり苦しい。
なぜなら、ここでは成長が自分を豊かにするためではなく、自分の価値を証明し続けるための運動になっているからです。

第123話で、理想が方位磁針ではなく成績表になると書きました。
ここでは成長そのものが成績表になります。
そして成績表になった成長は、必ず人を追い立てる。

生活全体が「運用」になる

新米経営者という幻想の本当の怖さは、仕事時間だけにとどまらないことです。

読書をする。
なぜか。
インプットになるから。

運動をする。
なぜか。
生産性が上がるから。

人に会う。
なぜか。
視野が広がるから。機会が増えるから。

休む。
なぜか。
次の成果のためにコンディションを整えるから。

このように、あらゆる行為が運用の言葉に回収され始める。
すると生活から「それ自体である時間」が消えていきます。

ただ楽しい。
ただ落ち着く。
ただ何でもない。
ただ意味がない。
こうした時間は、経営者化した自分から見ると、無駄や停滞に見えやすい。

しかし皮肉なことに、そういう余白が失われるほど、人は壊れやすくなります。
なぜなら、人生が全部プロジェクトになるからです。
第129話で言った「意味の置き場所」が、再び一本化する。
生きることそのものが、自分という事業の成功可否に吸い込まれていく。

「自分を高める」は、なぜ終わりがないのか

経営者の視点には終わりがありません。
利益はもっと出せる。
効率はもっと上げられる。
資産はもっと積める。
改善はもっと進められる。

この論理を自分に向けたらどうなるか。
当然、終わりがなくなります。

まだ足りない。
もっとできる。
もっと学べる。
もっと整えられる。
もっと効率化できる。
もっと市場価値を上げられる。

一見すると向上心です。
しかし実際には、「いまの自分では足りない」が常態化する。
この状態では、現在地がいつも不十分です。
すると休息も満足も、すべて仮置きになる。

少し休んだらまた改善。
少し成果が出たら次の目標。
少し整ったら次の最適化。

こうして、人は完成しない自己改善装置になります。
それは成長というより、持続的な未完了です。

新米経営者は、リスクだけを引き受けやすい

ここで非常に重要な点があります。
現実の経営者と、幻想としての新米経営者は、同じではありません。

本物の経営者には、少なくとも建前として、決定権があります。
方向を変える権利がある。
資源配分を変える権利がある。
引き受けない選択肢も持ちやすい。

しかし職場の中で経営者化を求められる労働者は、しばしば権限を十分に持ちません。

全体最適で考えろと言われる。
でも全体を変える決定権はない。
オーナーシップを持てと言われる。
でも人員や予算は動かせない。
事業インパクトを意識しろと言われる。
でも最終判断は別の場所で行われる。

つまり、経営者の視点だけを引き受けて、経営者の権限は持たない。
これは相当きつい。
責任感だけが膨らみ、裁量は限定される。
その結果、失敗や停滞は「自分の経営能力の不足」のように感じられやすい。

このとき人は、実際には構造の問題であるものまで、自分の課題として背負い始めます。
第124話の「正当性」が折れやすくなるのも、この地点です。

うまくいかないとき、なぜ自分を責めるのか

新米経営者という幻想の中では、うまくいかない理由がほとんど自分側に回収されます。

もっと戦略的であるべきだった。
もっと時間配分を見直すべきだった。
もっと学ぶべきだった。
もっと自分を鍛えるべきだった。
もっと成果にコミットすべきだった。

ここでは、環境や制度や偶然の比重が小さく見積もられます。
なぜなら、自分を経営者として見る以上、結果は自分の経営責任に見えるからです。

この見方が短期的には力をくれることもある。
しかし長期では、異常なほど自己責任を強めます。
しかも厄介なのは、それが自立や成長の言葉で正当化されることです。

依存するな。
甘えるな。
自分の人生は自分で引き受けろ。

たしかにその通りです。
ただし、その正しさの中に「だからすべての不具合を自分の責任として扱え」という毒が混ざると、人は静かに壊れていきます。

この幻想がバーンアウトに繋がる理由

ここまで来れば、なぜこれが燃え尽きに繋がるかは見えてきます。

仕事が手段ではなくなる。
成長が義務になる。
休息が運用になる。
生活全体が自己改善計画になる。
そしてうまくいかないことは、すべて自分の経営失敗に見える。

この条件が揃えば、意味の置き場所はきわめて脆くなります。
成果が出ている間はいい。
うまく回っている間はいい。
しかし何かが崩れた瞬間、揺れるのは仕事だけではありません。
自分という事業そのものが失敗したように感じられる。

第128話で、高給でも燃え尽きるのは報酬が盾ではないからだと書きました。
ここではさらに一歩進みます。
報酬や成長や主体性が、自分を支えるはずのものではなく、自分を休ませない仕組みになることがある。
それが、新米経営者という幻想の危険です。

では、自分で考えることを捨てるのか

そうではありません。
ここでも二択に落ちないことが大事です。

自分で考えることは大切です。
主体性も必要です。
成長も悪ではない。
問題は、それらが自己価値の証明になり、自分を経営資源として扱う回路に接続されることです。

必要なのは、自分を経営しないことではない。
自分を企業のように扱いすぎないことです。

今日は伸ばす日ではなく、止まる日かもしれない。
今日は投資ではなく、ただの余白でよいかもしれない。
この時間は回収不能でもよいかもしれない。
この行為は市場価値にならなくてもよいかもしれない。

そういう余白が戻ってきたとき、人は初めて「生きること」と「自分を運用すること」を分け始められる。

このシリーズの立場

ここでも、主題は変わりません。

掴まず、抗わず、流れとともに。

新米経営者の幻想に飲まれるとき、人は二つの極端へ振れやすい。

もっと自分を鍛えようとして、自己運用をさらに強める。
あるいは、成長も主体性も全部偽りだと見なして、自分の生きた力まで切ってしまう。

前者は、自己責任化を極限まで深める。
後者は、回復だけでなく活力まで閉じやすい。
どちらも長くは持ちません。

必要なのは、まず見抜くことです。
自立の言葉の中に、自己経営の強迫が混ざっている。
成長の言葉の中に、価値証明の圧力が混ざっている。
その見抜きが先です。

そして次に、自分の時間、自分の感情、自分の余白を、事業性の外へ少しずつ戻していく。
全部をやめる必要はない。
ただ、自分を経営資源として扱わない場所を増やしていく。
脱改造は、その非事業的な場所の回復から始まります。