"掴まず、抗わず、流れとともに" 第136話
命令されるより、自分で考えて動ける方がいい。
上から押しつけられるより、現場から改善できる方がいい。
やらされるより、主体的に関われる方がいい。
この感覚自体は、間違っていません。
むしろ自然です。
人は、自分で考え、自分で工夫し、自分で意味を見つけられるとき、力を出しやすい。
だから「参加型経営」や「主体性の尊重」という言葉は、とても魅力的に響きます。
けれど第136話で見たいのは、その魅力の奥にある両義性です。
参加型経営は、本当に自由なのか。
それとも、命令よりも深いところで人を仕事に結びつける、新しい支配の形なのか。
結論を先に言います。
参加そのものは悪ではない。
だが、参加が「自分で会社の論理を内面化すること」へ変わるとき、それは自由ではなくなる。
その瞬間、参加型経営は、外からの命令を減らす代わりに、内側からの自己管理を強める装置になる。
命令より参加の方が、ずっと気持ちよく働ける
まず、公平に出発点を置いておきます。
参加型経営が広がったのには、それなりの理由があります。
ただ言われた通りにやるだけでは、現場の知恵は死にやすい。
細かな無駄や歪みは、実際に働いている人にしか見えない。
だから、現場の人が改善を提案し、判断に関わり、より良い方法を考えることには、たしかに力がある。
実際、命令だけの環境より、参加がある環境の方が、人はやりがいを感じやすい。
自分が部品ではなく、意味のある存在として扱われている感覚が生まれるからです。
ここまでは、自由に近い。
問題はその次です。
参加が、発言権ではなく、献身の義務に変わるとき。
提案が、選べる権利ではなく、常時改善の責任に変わるとき。
主体性が、人格の評価基準に変わるとき。
ここで自由は、静かに別のものへ変質します。
参加は、命令より深く入り込める
外からの命令には、まだ境界線があります。
誰かが言った。
自分は従った。
少なくとも、命令している側と従っている側が分かれている。
しかし参加型の仕組みでは、その境界が曖昧になります。
自分で考えた。
自分で提案した。
自分で選んだ。
自分で改善した。
すると一見、自由度が上がったように見える。
けれど同時に、責任の位置も変わる。
以前なら「上が決めた」で済んだことが、「自分も参加した」に変わる。
以前なら「この仕組みが悪い」と言えたことが、「自分も改善に関わるべきだった」に変わる。
つまり参加は、命令よりも深い場所に入り込める。
外から身体を動かすのではなく、内側から価値観を動かせるからです。
第125話で、自己責任化は最も安い統治技術だと書きました。
参加型経営は、その自己責任化と極めて相性がいい。
なぜなら、やらされている感覚を減らしながら、自分で自分を追い立てる回路を作れるからです。
主体性は、いつ義務に変わるのか
主体性そのものは悪くありません。
本来、主体性とは、自分で考え、自分で引き受け、自分で線を引く力です。
つまり、従う力だけでなく、選ばない力も含んでいる。
ここが重要です。
ところが職場で「主体性」が語られるとき、その意味はしばしば細くなります。
自分から動いてください。
自分で課題を見つけてください。
もっとオーナーシップを持ってください。
改善提案をしてください。
当事者意識を持ってください。
この言葉たちは、一見すると自由の言葉です。
しかしよく見ると、方向が決まっている。
主体は歓迎される。
ただし、組織の目的に沿う限りで。
自分で考えることは求められる。
ただし、考えた結果として「引き受けない」は歓迎されにくい。
ここで主体性は、権利ではなく義務になります。
自分で動くことは求められる。
しかし、自分の側の都合で引く自由は弱い。
これでは主体ではなく、自己駆動する従順さです。
参加型経営が人を疲れさせる理由
参加型の現場で疲れる人は、しばしばこう自分を責めます。
もっと提案できたのではないか。
もっと先回りできたのではないか。
もっと改善できたのではないか。
自分の当事者意識が足りないのではないか。
ここで起きているのは、第123話で扱った「理想と現実の差」の新しい形です。
理想は、主体的に価値を出し続ける自分。
現実は、限られた時間、限られた気力、限られた裁量の中で動く自分。
この差が埋まらないとき、人は不足を能力ではなく人格の問題として受け取り始めます。
主体性が義務化すると、できなかったことがすべて「受け身の自分」の証拠になる。
提案しない。
巻き取らない。
改善しない。
声を上げない。
それだけで、価値の低い自分に感じられる。
ここで疲れるのは、作業量だけではありません。
常に「もっと自分から動けるはずだ」という内側の圧力です。
この圧力は命令より静かです。
静かだからこそ、逃げにくい。
参加の名のもとに、会社の視点を内面化する
参加型経営の本質的な変化は、ここにあります。
それは、働く人が会社の視点を内面化することです。
本来、労働者と組織の視点は一致しきりません。
当然です。
生活の都合がある。
身体の限界がある。
個人として守りたいものがある。
だから距離がある。
しかし参加型の仕組みは、その距離を縮めます。
コストを考えましょう。
全体最適で考えましょう。
この施策の事業インパクトは。
この改善でどれだけ効率化できるか。
顧客価値から逆算するとどうか。
こうした言葉自体は合理的です。
けれど、それを常時自分の頭の中で回し続けるようになると、何が起きるか。
自分の疲労より全体最適。
自分の違和感より顧客価値。
自分の時間より事業インパクト。
自分の境界線より効率。
つまり、自分の側の事情が、組織視点によって上書きされやすくなる。
これが進むと、会社の経営課題を自分の人格課題として引き受け始める。
第137話で扱う「新米経営者という幻想」に近づいていくのですが、その入口がすでにここにあります。
自由に見える支配の方が、抗いにくい
露骨な命令なら、人は違和感を持ちやすい。
こんなのはおかしい、と言いやすい。
しかし参加型の支配は、その違和感を起こしにくい。
自分で決めたことだから。
自分で提案したことだから。
自分も良いと思って動いているから。
現場を良くしたいだけだから。
この「自分も納得している」という感覚が、非常に強い拘束になります。
なぜなら、苦しくなったときに原因を外へ置きにくいからです。
仕組みの問題ではなく、自分の熱量不足かもしれない。
役割の問題ではなく、自分の当事者意識不足かもしれない。
運用の問題ではなく、自分の参加の浅さかもしれない。
こうして、構造の問題が個人の未熟さへ翻訳される。
第125話の自己責任化が、ここでも完璧に作動します。
参加には、終わりがない
参加型経営が疲れるもう一つの理由は、終わりが見えにくいことです。
命令された仕事には、少なくとも形式上の終点があります。
これをやる。
ここまでやる。
納品する。
終わる。
しかし参加型の仕事では、終点が後ろへ逃げやすい。
もっと改善できるのでは。
もっと顧客体験をよくできるのでは。
もっと無駄を減らせるのでは。
もっとチームを助けられるのでは。
もっと主体的に動けるのでは。
この「もっと」は、第132話で見た感情の商品化に似ています。
基準が曖昧で、善意の顔をしていて、止めどころが見えない。
だから自分で自分を追い立てやすい。
参加が深まるほど、仕事は単なる役務ではなく、自分の姿勢の試験になります。
すると人は、仕事の出来だけでなく、参加の仕方まで自己採点し始める。
これは非常に疲れる。
参加型経営の中の本当の自由とは何か
では、参加は全部支配なのか。
そう単純でもありません。
ここで全部を悪とすると、また別の極端へ振れます。
第131話以降、何度も見てきたことですが、問題は白か黒かではない。
主権がどこにあるかです。
本当の自由がある参加には、次の条件が要ります。
参加しない自由があること。
提案しない自由があること。
引き受けない自由があること。
改善を、常時の人格義務にしないこと。
組織視点と個人視点の距離を保てること。
つまり、参加できることと、参加を求められすぎないことが両立している必要がある。
参加が自由であるためには、離脱の可能性が残っていなければならない。
これがなくなると、参加はただの内面化です。
「自分からやる」が苦しくなったとき
この章の読者の中には、「自分からやる」こと自体が苦しくなっている人もいるはずです。
以前は面白かった。
考えることも、改善することも、提案することも嫌いではなかった。
それなのに今は、自発性という言葉を聞くだけで重い。
そういう状態です。
これは怠慢ではありません。
主体性が搾取の回路に接続されすぎた結果です。
自分からやるたびに、責任が増えた。
改善するたびに、期待が増えた。
提案するたびに、抱える範囲が広がった。
工夫するたびに、それが標準になった。
こういう経験が積み重なると、人は自発性そのものを危険信号として学習します。
これは甘えではなく、正常な防御反応です。
ここでも問題は、努力の不足ではない
参加型経営の中で苦しくなったとき、人はすぐこう考えます。
自分は主体性が足りないのでは。
もっと前向きであるべきでは。
もっと当事者意識を持つべきでは。
けれどここでも、問題は努力量ではありません。
問題は、参加が価値の証明に変わっていることです。
参加しないと価値がない。
改善しないと存在意義がない。
巻き取らないと信頼されない。
そういう配線になっているから苦しい。
つまり、第121話で言った改造が、ここでも働いている。
仕事が手段ではなく根拠になり、主体性が自由ではなく自己価値の証明になる。
この状態で「もっと参加しよう」とすると、回路はさらに太くなります。
このシリーズの立場
ここでも主題は変わりません。
掴まず、抗わず、流れとともに。
参加型経営の中で苦しいとき、人は二つの極端へ振れやすい。
もっと主体的になろうとして、自分をさらに駆り立てる。
あるいは、全部を支配だとみなして、完全に閉じる。
前者は自己責任化を深める。
後者は自分の生きた力まで止めやすい。
どちらも長くは持ちません。
必要なのは、まず見抜くことです。
参加が自由に見えても、そこに会社の論理の内面化が混ざっているかもしれない。
主体性という言葉が、権利ではなく義務として働いているかもしれない。
その見極めが先です。
その上で、自分がどこまで参加するのか。
どこから先は引き受けないのか。
改善と自己価値を切り離せるか。
そこに少しずつ手を入れていく。
脱改造は、その距離の回復から始まります。