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理不尽耐性が美徳になる理由

"掴まず、抗わず、流れとともに"  第135話


理不尽に耐えられる人は、強い人だ。
そう見なされる場面は、あまりにも多い。

嫌な相手にも崩れない。
無茶な依頼にも顔色を変えない。
不公平な扱いにも淡々としている。
疲れていても、仕事を止めない。
文句を言わずに回し続ける。

こうした人は、たしかに頼もしく見えます。
現場を壊さない。
空気を乱さない。
周囲に迷惑をかけない。
だから評価される。

けれど第135話で扱いたいのは、その評価の中にある危うさです。

なぜ現代の職場では、理不尽に耐える力が、成熟や信頼や有能さの証として読まれやすいのか。
なぜ本来は異常信号であるはずの「これはおかしい」「これはもう無理だ」が、美徳の言葉で覆い隠されてしまうのか。

結論を先に言います。

理不尽耐性が美徳になるのは、それが組織にとって非常に都合がいいからです。
そしてその都合のよさは、本人の中で「善いこと」として内面化される。
ここに、現代的な改造の深さがあります。

耐えることは、なぜ称賛されるのか

耐えることそれ自体は、悪ではありません。
人は共同体の中で生きる以上、ある程度の抑制や我慢は必要です。
気分だけで全部を決めるわけにはいかない。
不快だからといって何でも投げ出せば、生活も関係も持続しません。

だから、多少の耐性が必要なのは当然です。

問題は、その耐性がどこから「美徳」に変わるのかです。

少し嫌でもやる。
から
かなりおかしくても耐える。

一時的に飲み込む。
から
慢性的に自分を後回しにする。

状況に応じて抑える。
から
自分の違和感を感じないようにする。

この滑りが始まると、耐えることは調整ではなく自己切断になります。
それなのに外からは、成熟に見える。
ここが危険です。

組織は、耐える人を好む

組織の側から見れば、理不尽に耐えられる人は非常に便利です。

急な変更にも対応してくれる。
役割の曖昧さを受け止めてくれる。
不足した人手を埋めてくれる。
不公平を大ごとにしない。
無理な要求にも反発せず、場を回してくれる。

つまり、理不尽耐性が高い人がいると、設計不良が表面化しにくい。

本来なら見直されるべき運用が、その人の我慢で成立してしまう。
本来なら調整されるべき責任分界が、その人の献身で曖昧なまま回る。
本来なら異常として処理されるべき負荷が、その人の耐久力で日常化する。

だから組織は、意識的であれ無意識的であれ、そういう人を高く評価しやすい。
強い人だ。
頼れる人だ。
大人だ。
プロだ。
そうやって称賛する。

しかし、その称賛の中身をよく見ると、かなり危うい。

美徳化の正体は、異常の平常化

理不尽耐性が美徳になるとき、本当に起きているのは何か。
それは、異常の平常化です。

本来は負荷が高すぎる。
本来は責任が曖昧すぎる。
本来は要求が過剰すぎる。
本来は不公平が大きすぎる。

しかし誰かが耐えてしまうと、その異常は「回っている現実」として固定されます。
回っている以上、問題ではないことにされる。
むしろ耐えている人が、標準の基準になっていく。

あの人はできている。
あの人は文句を言わない。
あの人は感情を出さずにやっている。
なら、あなたもできるはずだ。

こうして個人の特殊な耐久が、全体の基準にすり替わる。
このすり替えが、現代の職場で非常によく起きる。

そして恐ろしいのは、本人までそれを善いことだと思い始めることです。

なぜ本人も、美徳だと信じてしまうのか

第125話で、自己責任化は最も安い統治技術だと書きました。
理不尽耐性の美徳化は、その自己責任化と非常に相性がいい。

なぜなら、耐えることには快感が混じるからです。

自分は弱くない。
自分は簡単には折れない。
自分は周囲より大人だ。
自分はこの程度では動じない。

こうした感覚は、一種の自己価値になります。
しかも社会からも褒められる。
すると、耐えることが単なる反応ではなく、アイデンティティになります。

自分は我慢できる人間だ。
自分は飲み込める人間だ。
自分は感情を抑えられる人間だ。

ここまで来ると危ない。
なぜなら、限界を知らせる信号そのものが、自己像と衝突するからです。

つらい。
おかしい。
もう無理だ。
そう感じても、それを認めることが「自分らしさの否定」に思えてしまう。
だからさらに耐える。
さらに飲み込む。
さらに黙る。

この回路に入ると、理不尽耐性は能力ではなく拘束になります。

耐えることが信頼の証になるとき

理不尽耐性が美徳化される背景には、信頼の問題もあります。

現場ではしばしば、耐える人が信頼されます。

急な無茶振りにも応じてくれる。
不満を言わずに引き受ける。
トラブルでも崩れない。
不機嫌を出さない。
周囲を困らせない。

たしかに、そういう人は扱いやすい。
しかしここで言う信頼は、かなり片寄っています。

本来の信頼は、この人は無理なときに無理だと言える、という信頼も含むはずです。
境界線を持っている。
自分の状態を読める。
必要なときには止まれる。
それもまた、成熟のはずです。

ところが現代の職場では、しばしば逆になります。
止まらない人が信頼される。
飲み込む人が信頼される。
違和感を出さない人が信頼される。

これは信頼というより、安定供給への期待です。
人格の安定ではなく、都合のよい耐久への依存です。

理不尽耐性は、感情信号を敵にする

第134話で、感情は異常を知らせる信号だと書きました。
怒り、疲労、違和感、拒否感。
これらはノイズではなく、境界線のセンサーです。

しかし理不尽耐性が美徳になると、その信号は敵になります。

怒るのは未熟だ。
疲れるのは弱い。
違和感を口にするのは協調性がない。
断るのは責任感が足りない。

こうして人は、信号を消そうとします。
でも信号は、消しても消滅しません。
読まれないまま蓄積するだけです。

すると起きるのは、麻痺です。

何が嫌なのかわからない。
どこから無理なのかわからない。
何に怒っているのかも曖昧。
ただ、しんどい。
ただ、空っぽ。
ただ、人に会いたくない。

これは怠慢ではありません。
過剰な耐性によって、自分の読み取り装置が鈍っている状態です。

耐えられる人ほど、壊れ方が遅く深い

ここが最も厄介です。
理不尽耐性が高い人は、すぐには壊れない。
だから周囲も本人も安心してしまう。

まだいける。
まだ回る。
まだできる。
まだ大丈夫。

しかし実際には、その「まだ」が長く続くほど、壊れ方は深くなります。
なぜなら途中で止まれないからです。

疲れた時点で止まれない。
違和感が出た時点で修正できない。
怒りが出た時点で境界線を引けない。
すると最後は、意味の支柱ごと崩れる。

第124話で見たように、相互性、正当性、到達可能性のうち二本以上が折れたとき、人は急に落ちます。
耐えられる人ほど、その折れに気づくのが遅い。
遅い分だけ、落差が大きい。

だから、理不尽耐性が高いことは必ずしも安全ではない。
むしろ、バーンアウトの前段階を長引かせやすいのです。

「耐えられること」と「耐えるべきこと」は違う

ここで大事な区別を置きます。

耐えられることと、耐えるべきことは違う。

人は、ある程度は耐えられます。
しかし耐えられるからといって、それを常に引き受けるべきだとは限らない。

走れるから、常に全力で走るべきではない。
運べるから、常に全部を背負うべきではない。
飲み込めるから、常に理不尽を飲み込むべきではない。

ところが現代の職場では、この区別が消えやすい。
できる人がやるべき。
回せる人が回すべき。
耐えられる人が耐えるべき。

この論理は、一見合理的です。
しかし長期では必ず壊れます。
なぜなら、能力が境界線を上書きしてしまうからです。

できることが、そのまま義務になる。
これほど人をすり減らす構造はありません。

我慢は美しい、という物語

理不尽耐性が美徳化される背景には、文化的な物語もあります。

耐えるのは立派。
黙ってやるのが大人。
愚痴を言わないのが成熟。
迷惑をかけないのが誠実。
波風を立てないのが善い人。

こうした物語は、たしかに共同体を保つ力を持っています。
しかし同時に、異常を隠す力も持っています。

本来なら調整されるべき負荷が、我慢で覆われる。
本来なら線引きされるべき侵入が、配慮で通される。
本来なら見直されるべき設計が、善人の献身で維持される。

すると、壊れる人だけが悪者に見えます。
耐えきれなかった人。
未熟だった人。
弱かった人。
そういう物語に回収されてしまう。

けれど実際には逆です。
壊れた人は、異常を身体で引き受けた人です。
その人の弱さではなく、その環境の限界が出たのです。

このシリーズの立場

ここでも主題は変わりません。

掴まず、抗わず、流れとともに。

理不尽耐性が美徳とされる場で苦しいとき、人は二つの極端へ振れやすい。

もっと耐えようとする。
あるいは、もう全部拒絶しようとする。

前者は自己消耗を深める。
後者は関係や役割ごと切断しやすい。
どちらも持続しにくい。

必要なのはまず、耐えている自分を褒める物語の中に、組織の都合が混じっていることを見抜くことです。
自分が成熟しているから苦しいのではない。
成熟という言葉の中に、過剰な引き受けが混入しているから苦しい。

そこが見えると、次に必要なのは、耐えるか壊れるかの二択ではないとわかってきます。
どこまでを役割として引き受け、どこからは設計不良として返すのか。
どの我慢は一時的な調整で、どの我慢は自己切断なのか。
その区別を取り戻すことです。

脱改造は、我慢を全部やめることではありません。
我慢の意味を取り戻すことです。