思想工学ブログ

お悩み募集中!その悩み、再設計してみませんか?

プロフェッショナルという自己矛盾

"掴まず、抗わず、流れとともに"  第134話


プロであれ。
しかし、自分勝手であってはならない。
主体的であれ。
しかし、感情的であってはならない。
自分らしくあれ。
しかし、相手にとって都合のよい自分であれ。

現代の仕事には、こうした奇妙な命令が溢れています。
一つひとつはもっともらしい。
むしろ社会人として当然に聞こえる。
けれど並べてみると、そこには明らかなねじれがあります。

第134話で扱うのは、このねじれです。

プロフェッショナルという言葉は、成熟や信頼の証として使われます。
しかし現代の労働環境では、それがしばしば、人格を持ち込ませながら人格を禁じる装置になっている。

それが、プロフェッショナルという自己矛盾です。

プロとは、本来何を意味していたのか

本来、プロフェッショナルとは、一定の技能と責任を持ち、自分の仕事を安定して遂行できる人のことです。
感情に流されず、状況に応じて判断し、役割を果たす。
そこにはたしかに価値があります。

問題は、その意味が拡張されることです。

安定して遂行する
から
いつでも感じよく振る舞う

責任を持つ
から
理不尽も飲み込む

判断できる
から
空気も読める

役割を果たす
から
自分の感情は見せない

こうしてプロフェッショナルは、技能や責任の話から、人格統制の話へと滑っていきます。

プロらしさは、なぜ人格要求になるのか

ここが重要です。
現代の仕事は、成果だけでは完結しません。
第131話から第133話で見てきたように、どう振る舞ったか、どう感じさせたか、どれだけ摩擦を減らしたかまでが仕事になる。

すると、プロであることの中身も変わります。

単に正しくやるだけでは足りない。
相手を不快にさせずにやること。
安心させながらやること。
空気を壊さずにやること。
感情を適切に抑えながらやること。

ここで、役割の遂行と人格の制御が接続されます。
プロらしさとは、もはや技術だけではない。
自分の内面を、仕事にふさわしい形へ調整できること。
つまり、自分の感情や反応まで運用対象にできること。

この時点で、プロフェッショナルは単なる熟練者ではありません。
自己管理された人格のことになります。

自分らしく、と言いながら自分を禁じる

現代の職場は、しばしばこう言います。

主体性を持ってほしい
自分の言葉で語ってほしい
自分らしさを大切にしてほしい
オーナーシップを持ってほしい

しかし同時に、こうも言う。

余計なことは言わないでほしい
感情的にはならないでほしい
空気を乱さないでほしい
批判的すぎないでほしい
会社の方針に沿ってほしい

ここで何が起きているか。
自分を出せと言われているのに、自分の都合で出すことは許されない。
主体的であれと言われているのに、主体が向かう方向は最初から決められている。
自分らしさが歓迎されるのは、それが組織の期待と一致するときだけです。

つまり求められているのは、自分そのものではない。
組織にとって都合よく調整された自分です。

このとき人は、人格を使っているのに、人格の主権を持てなくなる。

なぜこの矛盾が深く人を疲れさせるのか

命令が単純なら、人はまだ対処できます。
やるか、やらないか。
従うか、断るか。
それで済む。

しかし自己矛盾した命令は、人の内側に争いを起こします。

本音では違和感がある
でもプロなら抑えるべきだ
言いたいことがある
でも空気を壊してはいけない
限界が近い
でも責任感のある人は踏ん張るべきだ

こうして、外の要求がそのまま内面の対立になります。
相手と戦う前に、自分の中で自分と戦うことになる。
これが非常に消耗する。

しかもこの戦いは、善悪の言葉で起きやすい。
わがままか、成熟か。
未熟か、プロか。
感情的か、冷静か。
責任放棄か、献身か。

すると、違和感や疲労や怒りといった信号が、すぐに人格の欠陥として解釈されてしまう。
第125話の自己責任化が、ここでも作動します。

プロとは「感情がない人」のことではない

ここで一度、誤解を解いておきます。
プロフェッショナルであること自体が悪いわけではありません。
感情に流されず、役割を果たす力はたしかに必要です。

問題は、感情を持たないことがプロらしさだと誤解されることです。

本当は逆です。
感情があるからこそ、境界線が見える。
怒りがあるから、侵害がわかる。
疲労があるから、負荷がわかる。
違和感があるから、相性や設計不良が見える。

感情はノイズではありません。
システム異常を知らせる信号です。

ところが現代の「プロ」像は、その信号を見せないことを成熟と見なしやすい。
すると何が起きるか。
信号は消えないまま、ただ内部へ押し込まれる。
押し込まれた信号は、やがて別の形で噴き出します。

無気力。
慢性的な苛立ち。
人への冷たさ。
突然の涙。
何も感じたくないという感覚。
そして、意味の断線。

第122話で見たバーンアウトは、こういう場所からも起きます。

「理不尽に耐える力」が美徳になるとき

プロフェッショナルの語りが危ういのは、理不尽への耐性を美徳に変えやすいことです。

嫌な相手にも丁寧に
無茶な依頼にも冷静に
不公平でも前向きに
疲れても顔に出さずに

たしかに、社会の中では多少の抑制は必要です。
しかしそれが常態化すると、抑制は徳ではなく自己切断になります。

本当は嫌だ。
本当はおかしい。
本当は限界だ。
それなのに、プロなら耐えるべきだと考え始める。

このとき起きているのは、成熟ではありません。
違和感の麻痺です。

麻痺は短期的には便利です。
場が回るからです。
けれど長期的には、自分の内側の読み取り能力を壊します。
何が嫌なのか。
何が無理なのか。
どこから先が過剰なのか。
それがわからなくなる。

それは強さではない。
断線に近づく準備です。

人格を持ち込ませるのに、人格の都合は許さない

ここが現代的な働き方の最もねじれた点です。

共感してください
自分の言葉で話してください
信頼関係を築いてください
チームに貢献してください

これらは全部、人格を持ち込まなければできないことです。
機械的な処理だけでは足りない。
だから組織は、あなたの人間性を必要とします。

しかし同時に、人格の都合は許さない。

疲れているので今日はこれ以上は無理です
このやり方には違和感があります
今はその気持ちに応じられません

こうした人格の側の事情は、しばしば未熟さや協調性不足として扱われる。
つまり、人格は提供しろ。
だが人格の主権は持つな。
これが、プロフェッショナルという名の自己矛盾です。

この矛盾が、なぜバーンアウトに繋がるのか

第123話で、理想と現実の差が人を壊すと言いました。
ここでは理想とは、仕事をきちんと果たしたい、自分なりに誠実でありたいという願いです。
現実とは、その誠実さが、際限ない徴用の入口になること。

もっと気を配れ
もっと飲み込め
もっと整えろ
もっと大人になれ

終わりがない。
基準も曖昧。
しかも拒否しにくい。
なぜなら、全部「プロらしさ」の顔をしているからです。

この条件が揃うと、仕事は手段ではなく人格の試験場になります。
すると、失敗や疲労や拒否感は、単なる状態ではなく人格の敗北に感じられる。
ここで意味の支柱が折れやすくなる。

頑張っても終わらない。
誠実であるほど吸われる。
自分らしくあろうとするほど、自分が削られる。

これでは、どこかで空になるのは当然です。

「プロであること」と「自分を失うこと」は違う

ここで必要なのは、プロを捨てることではありません。
プロフェッショナルという言葉の中に混入した余計な要求を見分けることです。

技能と責任を持つこと。
これは必要です。

理不尽をすべて飲み込むこと。
これは別です。

役割に応じて振る舞うこと。
これは必要です。

人格の境界線を消すこと。
これは別です。

冷静に判断すること。
これは必要です。

感情信号そのものを麻痺させること。
これは別です。

この区別が曖昧だと、人は何でも「プロなら当然」と飲み込んでしまう。
その飲み込みが、自分を失わせる。

このシリーズの立場

ここでも、主題は同じです。

掴まず、抗わず、流れとともに。

プロフェッショナルという言葉に苦しめられるとき、人は二つの極端へ行きやすい。

もっと完璧に応えようとして、自分をさらに訓練する。
あるいは、こんな言葉は偽善だと全部拒否して硬くなる。

前者は自己消耗を深める。
後者は関係や役割ごと切ってしまいやすい。
どちらも持続しにくい。

必要なのは、まずこの言葉の内部にある矛盾を見抜くことです。
人格を求めながら人格を禁じている。
主体性を求めながら主体の方向は固定している。
この矛盾が見えると、自分が弱いから苦しいのではないとわかる。

その上で、役割として引き受けるものと、人格の主権として守るものを分けていく。
全部を一度に変えなくていい。
ただ、どこまでが職務で、どこからが自己切断なのかを見分け始める。
脱改造は、その見分けから始まります。