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感情に値札がつく

"掴まず、抗わず、流れとともに"  第132話


前回、第131話では「僕らはみんなサービス業」という視点を置きました。
接客業かどうかではない。
現代の仕事では、多くの場合、何をしたかだけでなく、どう振る舞ったかまでが評価される。
その結果、感情や態度や人格の表現までが、労働の一部として徴用される。

第132話では、その核心に一歩踏み込みます。

感情に値札がつく。

これは比喩のようでいて、かなりそのままの現実です。
笑顔。穏やかさ。安心感。共感。丁寧さ。前向きさ。
それらが人間らしさとして存在するだけではなく、交換可能な価値として扱われる。
つまり、商品になる。

ここで起きるのは、単なる気疲れではありません。
人の内面が市場化される、という事態です。

感情は、もともと売り物ではなかった

もちろん、人は昔から感情をやり取りしてきました。
親切にする。気を遣う。いたわる。励ます。
それ自体は人間関係の自然な一部です。

問題は、それが職務の要件に変わるときです。

親切であること
感じがよいこと
相手を安心させること
場の空気を壊さないこと
相手の不満を受け止めること

これらが「できれば望ましい」ではなく、「できて当然」になる。
しかも、できなかった場合には、能力不足や適性不足として処理される。

この瞬間、感情は自然な表現ではなく、職能になります。
そして職能になったものには、相場がつく。評価がつく。要求水準がつく。

それが、感情に値札がつくということです。

値札がつくと、何が起きるのか

値札がつくとは、単に褒められるという意味ではありません。
もっと厄介です。

まず、感情が「供給されるべき資源」になります。

笑顔を出してください
不機嫌を見せないでください
相手に安心感を与えてください
寄り添ってください
前向きに対応してください

こうした要求は、表面上は穏やかです。
しかし中身は、かなり重い。

なぜなら、これはモノを渡せと言っているのではない。
あなたの内側の状態を、職務仕様に合わせて調整してください、と言っているからです。

本心でそう感じていなくても、そう見えるように振る舞う。
疲れていても、疲れていないように見せる。
理不尽でも、理不尽を相手に感じさせない。
ここでは、感情が単なる副産物ではなく、成果物の一部になります。

商品化された感情は、どこが苦しいのか

ここで「それくらい社会人なら普通では」と感じる人もいるかもしれません。
たしかに、ある程度の自制や配慮は共同体の中で必要です。
問題は、その負担が見えにくいことです。

感情労働の苦しさは、力仕事のようには見えません。
重いものを持てば、疲れたことがわかる。
長時間立てば、足が痛いことがわかる。
しかし感情を調整し続ける疲れは、説明しにくい。

それでも確実に削られます。

なぜなら、感情労働では、自分の内側を使っているのに、その使い道を自分で決めていないからです。

ここで生じるのは、単なる消耗ではありません。
主権の喪失です。

自分の笑顔なのに、自分のために使っていない。
自分の丁寧さなのに、自分のリズムでは出せない。
自分の共感なのに、出したい相手と量を選べない。

このねじれが続くと、人は「空っぽになる」という感覚に近づいていきます。

感情の商品化は、善意の顔をして進む

ここが特に危険です。
感情の商品化は、露骨な命令としては現れにくい。

もっと誠実に
もっと相手目線で
もっとやさしく
もっと寄り添って
もっと期待を超えて

どれも、単独で見れば悪い言葉ではありません。
むしろ美しい。
だから反論しづらい。

しかし、この「もっと」が止まらない。
そして基準が曖昧だから、自分で自分を追い立て始める。

これで十分だろうか
まだ冷たく見えるのでは
もっと安心させるべきでは
まだ配慮が足りないのでは

第125話で見た自己責任化が、ここで非常に滑らかに作動します。
命令されなくても、自分で自分を管理する。
しかも「より善くあろう」とする形で進む。
だから止まりにくい。

感情に値札がつくと、境界線が曖昧になる

モノには境界があります。
ここまで作れば完成。
ここまで納品すれば終わり。
ここから先は追加作業。

しかし感情には境界が見えにくい。
どこまで笑えば十分か。
どこまで寄り添えば十分か。
どこまで柔らかければ十分か。
どこまで不快を飲み込めば十分か。

基準が曖昧な仕事は、終わりを失いやすい。
終わりを失った仕事は、自己増殖しやすい。
すると、心の中に常に未完了感が残ります。

今日の対応は十分だったか。
あの返信は冷たくなかったか。
もっといい言い方があったのではないか。
あの場を壊したのではないか。

こうして仕事が終わっても、仕事が頭から出ていかない。
第122話で言った「断線」の一部は、こうして起きます。
業務が終わっても、感情の後処理が終わらないからです。

感情の商品化は、相互性を壊しやすい

第124話で、意味の支柱として相互性を挙げました。
自分が差し出したものに、何らかの形で返ってくるという感覚です。

感情労働は、この相互性を壊しやすい。

丁寧に対応した。
安心させようとした。
不快にさせないようにした。
それでも返ってくるのは、追加要求、当然視、無反応、時には攻撃です。

ここで人は深く削られます。
なぜなら、差し出したものが「モノ」ではなく、自分の内側だからです。

商品なら、売って終わりです。
でも感情は、出すたびに自分の内部から減っていく感覚がある。
しかも返礼がない。
すると、誠実さそのものが危うくなる。

丁寧にする意味はあるのか。
共感する意味はあるのか。
こちらが削れるだけではないか。

これが積み重なると、意味の置き場所が崩れ始めます。

「感じのよさ」が能力になると、人格が評価対象になる

もう一つ重要なのは、感情に値札がつくと、人格と能力の境界が曖昧になることです。

本来、能力評価は役割に対するもののはずです。
しかし現実には、こうなりやすい。

感じがいい人は有能
空気を壊さない人は優秀
いつも穏やかな人は信頼できる
疲れを見せる人は未熟

すると、仕事上の評価が、そのまま人格評価になります。
第121話で言った「能力が評価から存在価値へすり替わる」が、ここで一気に進む。

できるかどうかではなく、どういう人間かが採点される。
しかも採点基準は曖昧。
曖昧なのに、強く効く。

これが、感情の商品化が怖い理由です。
人格が市場の評価にさらされるからです。

では、感じよくすること自体が悪いのか

そうではありません。
ここでありがちな誤解は、「だったら冷たくなればいい」「サービス精神など捨てればいい」という方向です。
それもまた単純すぎる。

問題は、やさしさや丁寧さそのものではない。
それが無制限に徴用され、しかも当然視されることです。

やさしさは本来、贈与に近い。
自分の側に主権があるときに成立する。
今は出す。今は出さない。ここまで出す。ここからは出さない。
それを自分で決められるから、人間らしい。

ところが商品化されると、贈与が義務に変わる。
義務に変わった贈与は、もはや贈与ではありません。
そこに主権はない。

だから必要なのは、やさしさを捨てることではない。
やさしさの主権を取り戻すことです。

このシリーズの立場

ここでも、シリーズの主題に戻ります。

掴まず、抗わず、流れとともに。

感情に値札がついた社会で苦しいとき、人は二つの極端に振れやすい。

もっと感じよくなろうとして、自分をさらに差し出す。
あるいは、もう何も差し出すまいとして、固く閉じる。

前者は搾取に吸い込まれやすい。
後者は対人関係ごと壊しやすい。
どちらも長続きしません。

必要なのは、まず構造を理解することです。
自分がわがままなのではない。
感情が商品として扱われているから、疲れる。
人格まで評価対象になっているから、苦しい。
ここを見抜くことが先です。

その上で、何を差し出し、何を差し出さないか。
どこまで応じ、どこからは応じないか。
どの丁寧さは自分の意志であり、どの丁寧さは徴用なのか。
そこを区別し始める。

脱改造は、この区別から始まります。