"掴まず、抗わず、流れとともに" 第50話
“生きづらさ”から“弁証法としての生”へ
ここまで続けてきたこの章も、いったん今回で一区切りです。
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「私」という中心はどのように立ち上がるのか
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物語は世界を整理しながら、同時に曇らせること
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エゴを「捨てる」のではなく、「ちゃんとやる」という第二の成長
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豊かさを生ききった者だけが、軽やかに手放せるということ
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知りすぎた末にやっと辿り着く「私は知らない」という無知
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殻としてのエゴ、繭としての人生――卵が割れるタイミングはこちらでは決められない
それらはすべて、ひとつの問いの変奏でした。
「この“生きづらさ”を抱えたまま、私たちはどう生きていけるのか?」
今回のテーマは、それを少しだけ別の言葉で言い換えてみることです。
「獲得し、失い、それでもなお、生きていく」
その繰り返しとして、人生を “弁証法としての生” として捉え直してみる、という試みです。
1. 「生きづらさ」は、矛盾の感度が高いということでもある
この連載の最初のほうで触れたように、
“生きづらさ”とは、単なる「弱さ」や「未成熟」ではありません。
むしろそれは、
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自分の内側にあるもの
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外側の世界のルールや期待
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過去に信じてきた物語
それらの 矛盾に対する感度が高い ということでもあります。
たとえば、
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「本音では休みたい」のに、「成果を出さないと生きていけない」
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「人を大事にしたい」のに、「自分を守ろうとするとクールになってしまう」
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「自由でいたい」のに、「誰かに認められたい気持ちが強い」
こうした二つ以上の力が、
同じ体の中に同居していることに気づいてしまうとき、
生きづらさは強くなります。
見ないふりをすれば、
一時的には気が楽になるかもしれません。
けれど、その矛盾への感度を完全に消してしまうと、
「確かに楽にはなったけれど、自分でなくなっていく」
という別種の苦しさがやってきます。
だからこそ、この章でずっと扱ってきたのは、
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「矛盾を消す方法」でも
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「矛盾の片方を殺す方法」でもなく
「矛盾を抱えたまま、生をどう動かしていくか」
という問いでした。
2. “弁証法としての生”という見方
ここで出てくるのが、少し堅苦しい言葉ですが、
「弁証法」 という考え方です。
教科書風に言えば、
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ある立場(テーゼ)が現れる
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それに対立する立場(アンチテーゼ)が現れる
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両者が衝突し合いながら、「より広い視野」へと組み替えられていく(ジンテーゼ)
という流れです。
ただ、わざわざカタカナを並べる必要はありません。
日常の言葉に引き寄せると、それはこう言い換えられます。
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いったん「これが正しい」「これが自分だ」と信じて進む
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現実とのあいだで矛盾や行き詰まりが露わになる
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それを通して、前よりも少しだけ “広い自分/広い世界観” に組み替えられる
この、獲得 → 衝突 → 再編成 の往復運動そのものが、
生の動きだ、という見方です。
ここで重要なのは、
獲得したものが、あとになって「間違い」だったと判明しても、
それが「無駄だった」とは限らない
という点です。
むしろ、
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いったん「それがすべてだ」と思い込んで生きてみる
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その結果として、「そうではなかった」と痛感する
というプロセスのなかでしか、
「もう少し広い視野」が自分の実感として立ち上がってこない
ということが多々あります。
3. 獲得するとき、私たちは世界を細く見る
何かを「獲得する」段階では、
私たちはどうしても視野が狭くなります。
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仕事で成果を出したい
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愛されたい、必要とされたい
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自由でありたい、自分らしくありたい
こうした目標に向かっているとき、
世界は一時的に、
「その目標に役立つかどうか」
という一つの軸で、切り分けられてしまいます。
役立つものは「善」、
邪魔になるものは「悪」
そこまで単純に割り切らずとも、心のどこかでそう見なしてしまう。
その結果、
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周りの人を、無意識に「役立つかどうか」で評価してしまう
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自分の感情ですら、「目標に役立つか」で切り捨ててしまう
ということが起こります。
この段階だけを切り取れば、
「視野が狭い」「エゴイスティック」「未熟」
といった言葉で批判することもできるかもしれません。
けれど、ここで大事なのは、
「そうやって一度は細く生きてみる」こと自体が、次のステージへの材料になっていく
という視点です。
4. 失うとき、私たちは世界の厚みにぶつかる
しかし、人生のどこかで、
その「細さ」が限界を迎える局面が訪れます。
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どれだけ成果を出しても、空虚さが消えない
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必死に守ってきた関係が、あっけなく終わる
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「自分らしさ」が、ただの枠にしか感じられなくなる
このとき私たちは、
「これさえあれば大丈夫」と思っていたものが、
思っていたほど絶対的ではなかった
という事実にぶつかります。
それは「失う」として経験されますが、
同時に、
「世界は、自分が思っていたよりも分厚い」
ということを突きつけられる瞬間でもあります。
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自分の努力ではコントロールできない要素
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他人の人生が持っている別の物語
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社会や歴史の流れのなかで、自分の位置がどれだけ小さいか
そうした「厚み」とぶつかるとき、
生きづらさは一気に増します。
しかし、それは同時に、
「細い世界から、厚い世界への入口に立っている」
というサインでもあります。
5. それでも生きていく、再編成としての「次の一歩」
「獲得」だけを見ているとき、
人生は「積み上げゲーム」に見えます。
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より多くの知識
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より確かなキャリア
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より豊かな人間関係
を積み上げていくほど、
自分の価値が高まっていくように思える。
しかし、失う経験を通り抜けていくと、
だんだんと、
人生は「積み上げる」だけではなく、
「組み替え続ける」プロセスでもある
ということが、実感として見えてきます。
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ある時期に獲得した価値観を、一部手放す
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別の価値観を取り入れながら、自分なりの配合に調整する
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そのたびに、仕事の意味づけや人との関わり方が少しずつ変わる
この 「組み替え続ける」動きこそが、弁証法としての生 です。
そして、それは決してドラマチックなものとは限りません。
多くの場合、それは、
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昨日より少しだけマシな言い方を選ぶ
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前なら飲み込んでいた本音を、ほんの一行だけ足してみる
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いつもなら自分を責めるところで、「それでもよくやった」と一度だけつぶやいてみる
といった、ごく小さな「次の一歩」として現れます。
6. 「矛盾をなくす」のではなく、「矛盾を動かす」
ここまでの話を、もう一度シンプルな形にまとめてみます。
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私たちは、何かを 獲得 することで、最初の「私」や「世界の見方」を持つ
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そのままでは現実とぶつかり、矛盾として 生きづらさ を感じる
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その矛盾を通して、少し広い視野へと 再編成 されていく
この「獲得―生きづらさ―再編成」のループ自体が、
生の動きそのものだと捉えてみる。
そうすると、
「矛盾があるからダメなのではなく、矛盾があるからこそ動ける」
という視点が見えてきます。
弁証法という言葉を使うなら、
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矛盾を 誤差として消す のではなく
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矛盾を エンジンとして回す
というイメージです。
生きづらさは、そのエンジンが回り始めるときの「きしみ」のようなものでもあります。
7. この章をいったん締めくくるための、三つの問い
最後に、この第41〜50話を通して扱ってきたテーマを、
あなた自身の現実に持ち帰るための問いを、三つだけ残しておきます。
問い1:いまの自分をつくっている「物語」は何か?
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「私はこういう人間だ」
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「世界はだいたいこういう場所だ」
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「人生とはこういうものだ」
そんな前提になっている物語を、
一度書き出してみるのもいいかもしれません。
そのうえで、
「その物語は、いつ・どんな場面で獲得したのか?」
と問いかけてみる。
それは、ある時期の自分を助けてくれた「殻」や「繭」だったのかもしれません。
問い2:その物語が「守ってくれているもの」と「奪っているもの」は?
ひとつの物語は、必ず
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守ってくれているもの(安全、理解しやすさ、役割)と
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奪っているもの(可能性、関係の別の形、別の自分)
の両方を持っています。
「この物語は、何から自分を守っているだろう?」
「その代わりに、何を見えにくくしているだろう?」
と、両方を見てみること。
それだけでも、「矛盾の輪郭」が少し見えやすくなります。
問い3:この矛盾を、“少しだけマシな方向”へ動かすとしたら?
最後に、
「いま抱えている矛盾を、今日、この一日で“少しだけマシな方向”へ動かすなら、どんな行動がありうるだろう?」
と自分に問うてみる。
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誰かに一言、いつもより正直に伝えてみる
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自分へのダメ出しの文章に、一行だけ「それでも」を足してみる
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「知らない」と言う勇気を、今日一度だけ出してみる
そんな小さな動きで構いません。
弁証法としての生は、
壮大な悟りや、劇的な転換点だけでできているのではなく、
「小さな往復運動」を、
諦めきれずに続けている時間そのもの
のなかに、すでに始まっています。
8. 獲得し、失い、それでも
最後に、この章の冒頭の問いに戻ります。
「この“生きづらさ”を抱えたまま、私たちはどう生きていけるのか?」
完全に答えが出たとは、もちろん言えません。
それでも、ここまでの議論を通して
ひとつだけ言えるとしたら、それはこうです。
私たちは、何かを獲得し、
それを失い、
それでもなお、生きていく。
その繰り返しのなかでしか見えてこない、
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少しだけ広い「私」
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少しだけ厚みを増した「世界」
が、たしかにあります。
生きづらさは、そのプロセスの「副作用」でもあり、
同時に「道標」でもあります。
それを抱えたまま、
今日もまた、小さな一歩だけでも前に進めてみる。
その歩みそのものが、
あなたの生を、弁証法としてゆっくりと深めていくのだと思います。