"掴まず、抗わず、流れとともに" 第48話
知識の山を登りきった先にある、本当の無知
ここまでの数話では、
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「私」という中心の立ち上がり方
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物語が世界を整理しながら、同時に曇らせもする構造
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エゴを「捨てる」のではなく、「ちゃんとやる」という第二の成長
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「豊かさを生ききった者だけが、軽やかに手放せる」という、受け取りと手放しの往復
といったテーマを見てきました。
今回は、その「知の側」にある話です。
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もっと知りたい
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間違えたくない
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ちゃんと理解していたい
そう願って、たくさん情報を集め、勉強し、考え続けた末に、
最後に静かに立ち上がってくる一つのフレーズがあります。
「……正直、私はよく分かっていない」
この「私は知らない」という言葉は、
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逃げとしての「どうでもいいよ」でもなく
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開き直りとしての「考えても無駄」でもなく
知識の山をそれなりに登り続けた末にやっと訪れる、別種の“無知”です。
今回は、この「本当の無知」の話をしてみます。
1. 「知っている側」に回りたい心
多かれ少なかれ、私たちはみんな、
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「分かっている人」でありたい
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「間違えない人」でありたい
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「説明できる人」でありたい
という欲求を持っています。
学校では、
「知っていること」「正しく答えられること」が評価されます。
社会に出れば、
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「事情に通じている」
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「専門知識がある」
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「人より一歩先を見通せる」
そんな人が信頼され、頼られ、役割を与えられます。
ネットの世界でも、
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物知りであること
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早く情報にアクセスできること
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難しい話を分かりやすく語れること
が、ある種の「強さ」として扱われます。
こうして私たちは、知らず知らずのうちに
「知らない自分」は劣っている
「知っている自分」は一段高いところにいる
という感覚を、どこかで抱え込んでいきます。
2. 「分かったつもり」の心地よさ
この感覚が強いほど、私たちは
「分からないままでいる」という状態に、長く留まりづらくなります。
すると、どうなるか。
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ちょっとだけ聞きかじった情報で、「だいたい分かった気」になる
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一冊本を読んだだけで、そのテーマを語れる気になってしまう
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自分の理解に合わない情報は、「間違っている」「偏っている」と切り捨てる
いわゆる「分かったつもり」です。
この状態には、たしかに心地よさがあります。
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不安が減る
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白黒がハッキリしているので、判断が楽
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自分が「正しく立っている場所」を持てた気がする
しかし、その心地よさと引き換えに、
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世界の複雑さ
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例外の多さ
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自分の理解の限界
に触れる機会は、どんどん減っていきます。
知識が増えたのではなく、
「知っている感」が増えただけ
ということも、決して少なくありません。
3. 山のたとえ:ふもと・中腹・尾根
ここで、よく使われる比喩を、あえてもう一度整理してみます。
① ふもと:何も知らないけれど、怖さも知らない
あるテーマについて、ほとんど何も知らないとき。
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「まあ、だいたいこんなもんでしょ」
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「ニュースで見た感じだと、〇〇ってことだよね」
というふうに、かなり大雑把なイメージだけで語れてしまいます。
この段階では、
「知らないことの広さ」を、まだ実感していない
ので、
自信満々に言い切ることも、案外簡単です。
② 中腹:勉強すればするほど、分からなくなるゾーン
本を読み、経験を積み、人の話も聞き、
ある程度きちんと向き合い始めると、
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「例外だらけだな」
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「前提条件を言わないと話にならないな」
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「本当にそう言い切っていいのか?」
という疑問が次々に湧いてきます。
ここは、ある意味でいちばんしんどいゾーンです。
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昔のように、単純に言い切れない
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かといって、「何も分からない」と投げ出すのも違う
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たくさん知ったはずなのに、むしろ自信が減っている気がする
多くの人が、ここで疲れてしまい、
「もう考えすぎるのはやめよう」「細かいことはどうでもいい」
と、ふもと側に戻ってしまうこともあります。
③ 尾根:限定付きの「私は知らない」
それでも、そのテーマに長く付き合い続けている人たちは、
やがて別の地点に出ます。
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「自分が分かっている範囲」と
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「自分が分かっていない範囲」
の輪郭が、だんだんハッキリしてくる地点です。
このあたりで出てくるのが、
「私に言えるのは、ここまでです」
「ここから先は、正直よく分からない」
という、限定付きの「私は知らない」です。
そこには、
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最初期の「開き直りとしての無知」とも
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中腹での「自信喪失としての無知」とも
違う、別種の落ち着きがあります。
4.「本当の無知」とは、輪郭のある「知らなさ」
ここで、「本当の無知」を少し定義してみます。
それは、
「何も知らない」という意味での無知ではなく、
「どこまで知っていて、どこから知らないのか」を
自分でちゃんと分かっている状態
だと言えます。
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ある領域については、それなりに調べ、考え、経験した
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その上で、「それでも分からない部分が、これだけ残る」と理解している
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だからこそ、軽々しく断定することの危うさも、体感として知っている
この「輪郭付きの知らなさ」がある人の
「私は知らない」
は、単なる無責任ではありません。
むしろ、
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今の自分の立ち位置を正直に示し
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相手に対しても、誠実な余白を残そうとする
という、かなり高度な知的態度です。
5. 「私は知らない」が救いになる場面
「知らない」と認めることは、
一見すると、弱さや負けのように感じられます。
けれど実際には、
それが救いになる場面がいくつもあります。
① 人間関係の「分かったつもり」を手放せる
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「あの人はこういう人だ」
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「あのときああ言ったのは、こういう意図に違いない」
と決めつけてしまうと、
関係はすぐに行き詰まります。
「本当のところは、私は知らない」という前提を持てると、
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相手の事情を聞く余地
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自分の誤解を修正する余地
が残ります。
それは、関係を延命させるためというより、
「自分の狭い物語で、世界を塗りつぶさないため」の安全装置
でもあります。
② 自分自身についても、「分かったつもり」を緩められる
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「私はこういう性格だから」
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「私はいつもこう失敗するから」
というセルフイメージもまた、
一種の「分かったつもり」です。
「実は自分のことも、よく知らない部分がたくさんある」と認められると、
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これまでとは違う行動を選んでみる勇気
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別の自分の側面を試してみる余白
が生まれます。
「私はこういう人間だ」ではなく、
「今のところ、こういう傾向が強い“らしい”」
くらいの距離感にできると、
自分との付き合い方も、少し柔らかくなります。
③ 未来について、絶望と楽観の両方から距離が取れる
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「どうせ良くならない」
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「これさえあれば、絶対うまくいく」
こうした言い切りの裏には、
「未来を分かっているつもり」
があります。
「未来のことは、私は知らない」と認めることは、
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根拠のない希望を振りまくことでもなく
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全部諦めてしまうことでもなく
「分からないなりに、今できる一歩を選ぶ」
という、等身大の姿勢につながります。
6. 「知らなさ」とどう付き合うか ― 三つの実践
では、日常のなかで
「本当の無知」に近づいていくには、
どんな練習ができるでしょうか。
ここでは三つだけ挙げてみます。
実践1:「いまのところこう思う」とつけ足す
何かを語るとき、
心のなかで(あるいは声に出して)
「いまのところ、こう思う」
「今の自分が把握できている範囲では」
と一言つけ足してみます。
たったそれだけで、
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自分の意見を「暫定版」として扱える
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後から修正することへの抵抗が減る
という効果があります。
「絶対こうだ」と言い切るのではなく、
「現時点の仮説として、こう見ている」
くらいのテンションで世界を見る癖がついていくと、
「知らない」を認める筋肉も育ってきます。
実践2:「どこまで知っていて、どこから知らないか」を書き出す
あるテーマ(仕事でも、人間関係でも、社会問題でも)をひとつ選び、
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自分が「知っていること」
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自分が「実はよく分かっていないこと」
を、紙に分けて書いてみます。
ポイントは、
「分かっていないこと」のほうを、できるだけ具体的に書く
ことです。
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「〇〇の統計を実際に見たことはない」
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「当事者の話を直接聞いたことはない」
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「反対の立場の人の本は読んでいない」
といった具合に。
これを繰り返していくと、
「知らなさ」にも輪郭がある
という感覚が、だんだん育ちます。
実践3:一日に一度、「わからない、教えて」と言ってみる
意識して、
「それ、よく分からないので教えてもらえますか」
というフレーズを、一日に一度だけでも使ってみます。
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専門用語が出てきたとき
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自分の分野外の話になったとき
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相手の前提がよく見えないとき
「知らない」と言う瞬間、
内側にモゾモゾした恥ずかしさや不安が湧いてくるかもしれません。
それを感じつつ、
「知らないと言っても、世界は壊れない」
という経験を、少しずつ自分の体に覚えさせていくようなイメージです。
7. 「無知の自覚」は、謙虚さというより“余白”になる
ソクラテスの「無知の知」という言葉は有名ですが、
それを「謙虚であれ」という道徳的スローガンとして受け取ると、どこか苦しくなります。
ここで扱っている「私は知らない」は、
もう少し実務的な意味合いが強いものです。
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世界は、自分の理解よりも常に大きい
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他人の内側で起きていることは、ほとんど見えていない
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自分自身についても、まだ知らない側面がたくさんある
この事実を引き受けることは、
自分を小さく卑下することではなく、
「決めつけないでいられる余白」を持つこと
だと言えます。
その余白のなかで、
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新しい情報に出会ったときに、素直に驚ける
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自分の間違いに気づいたときに、「修正すればいい」と思える
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相手の話を聞いたときに、「そういう見え方もあるのか」と受け止められる
といった、しなやかな知性の動きが可能になっていきます。
8. 知識の山を登りきった先にある「分からなさ」
知ること自体は、やはり力です。
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自分を守るためにも
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誰かの役に立つためにも
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世界の複雑さを少しでも理解するためにも
学び続けることには、大きな意味があります。
ただ、その山を登れば登るほど、
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自分の知らなかった前提に気づき
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見えていなかった人々の顔が現れ
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自分の理解がいかに部分的かを思い知らされる
という経験が続きます。
その果てにようやく、
「私は、たくさん知ってきた。
その上で、まだ分からないことだらけだ」
という、静かな「私は知らない」が立ち上がる。
それは、
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ふもとの「何も知らないから、分からない」でもなく
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中腹の「知ろうとして傷ついたから、もう分からなくていい」でもなく
「知ろうとし続けたからこそ辿り着いた、輪郭を持った無知」
です。
この地点に立つとき、
知識は「マウントを取るための武器」ではなく、
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自分と世界の間に橋をかけるための道具であり、
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自分の限界を知るための鏡でもある
という、少し違う顔を見せ始めます。