思想工学ブログ

お悩み募集中!その悩み、再設計してみませんか?

エゴを“ちゃんとやる”という第二の成長

"掴まず、抗わず、流れとともに"  第46話


・未熟なまま否定しないという視点

ここまでの数話で見てきたのは、

  • 「私」という中心がどのように立ち上がるのか

  • 物語が世界を整理しつつ、どのように曇らせてしまうのか

  • 視点を少しずらすだけで、同じ出来事がまったく違う顔を見せること

といった構造でした。

ここから先のテーマとして、避けて通れないのが「エゴ」です。

  • 「エゴを捨てなさい」

  • 「執着を手放しなさい」

  • 「もっと利他的になりなさい」

こうした言葉は、自己啓発やスピリチュアルの世界では何度も繰り返されます。
たしかに一理あります。けれど、多くの人にとっては

「まだちゃんと育ちきってもいないエゴを、急いで消そうとしている」

ような状態になってしまっているのではないか、という問題があります。

この話では、

「エゴを消す」のでもなく、
「エゴに振り回される」のでもなく、
エゴを“ちゃんとやる”という第二の成長

という視点を扱ってみたいと思います。


1. 第一の成長としての「エゴの獲得」

まず前提として、エゴには「第一の成長」としての役割があります。

子どもにとってのエゴとは、

  • 自分のテリトリー(境界)を知ること

  • 「嫌なものは嫌」と感じる感覚を持つこと

  • 「これは自分の好き」「これは自分の嫌い」を持てること

といった、基本的な自己の輪郭づくりでもあります。

ところが、現実には

  • 「わがままを言ってはいけない

  • 「空気を読みなさい」

  • 「ちゃんといい子でいなさい」

といったメッセージを強く浴びた結果、

本来なら身につけておくはずだった“素朴なエゴ”を、途中で折りたたんでしまった

という人が少なくありません。

そのまま大人になると、どうなるか。

  • 嫌でも断れない

  • 疲れていても笑顔で応じてしまう

  • 「自分は何がしたいのか」が、いまいちよく分からない

といった形で、自分の輪郭が曖昧なまま社会に出ていくことになります。

これは決して「徳が高い」状態ではなく、

本来必要だった第一の成長プロセスが、どこかで止まってしまっている

という見方もできます。


2. 早すぎる「エゴ否定」が生み出すねじれ

そんな状態のまま、自己啓発や精神世界の言葉に出会うと、こうなりがちです。

  • 「エゴは悪いものなんだ」

  • 「自分の欲を持つのは未熟なんだ」

  • 「もっと“与える側”にならないといけないんだ」

もともと「自分の欲」を十分に自覚していないのに、
さらにそれを「無くそう」としてしまう。

すると、表面上は

  • 「人のために頑張る自分」

  • 「何でも受け入れる大人な自分」

  • 「執着を手放したクールな自分」

のように見えますが、内側では

  • 認められたい

  • 感謝されたい

  • 特別だと思われたい

といった、ごく人間的な欲求が、行き場を失ってうごめき続けます。

この状態を無理に押さえ込むと、

  • 被害者としての物語(「こんなに尽くしているのに…」)

  • 道徳的な優位性(「私は利他的、あなたは利己的」)

  • ささやかな操作(「相手に罪悪感を抱かせて動かす」)

といった、ねじれた形のエゴとして噴き出してしまいます。

ここでのポイントは、

エゴを「無いことにしよう」とすると、かえって扱いづらくなる

ということです。


3. 「エゴをちゃんとやる」とは何か

では、「エゴをちゃんとやる」とはどういうことでしょうか。

それは端的に言えば、

自分の欲や未熟さを、
正直に引き受ける責任を持つ

ということです。

もう少し具体的に言うと、次のような態度です。

  • 「本当は認められたい」と、まず自分に対して認める

  • 「格好つけたい」「楽をしたい」といった本音も、見なかったことにしない

  • そのうえで、「それをどう表現するか」「どこまで行動に移すか」を自分で選ぶ

ここで大事なのは、

欲望そのものと、行動としての表現を分けて扱う

という感覚です。

たとえば、

  • 「休みたい」と思うこと自体は、何も悪くありません。

  • しかし、「全部を放り出すかどうか」は、また別のレベルの判断です。

「エゴをちゃんとやる」とは、

  • 「自分はこうしたい」と素直に認めたうえで

  • その欲求をどう扱うかを、自分の名前で引き受ける

という、二段階のプロセスをサボらないことだと言えます。


4. 「未熟なまま否定しない」という姿勢

ここで出てくるのが、今回のサブタイトルでもある

「未熟なまま否定しない」

という視点です。

私たちはしばしば、

  • 「こんなことを考える自分は子どもだ」

  • 「こんな感情を持つなんて情けない」

と、自分の内側にいる“幼い部分”を、恥ずべきものとして扱ってしまいます。

しかし、よく考えてみると、

  • 「認められたい」

  • 「大事にされたい」

  • 「見捨てられたくない」

といった願いは、
人間である限り、ごく自然なものです。

問題なのは、それが

  • 無自覚のまま

  • 子どものやり方(拗ねる、試す、黙る、急に切れる)で

  • 間接的に表現されてしまう

ところにあります。

「未熟なまま否定しない」というのは、

  • 幼い部分を「無いこと」にするのでもなく

  • 幼い表現のまま他人にぶつけるのでもなく

「ああ、いま自分のなかの未熟な部分が、こう叫んでいるな」と気づきながら、
それを“引率する大人”としての自分を、同時にそこに立たせておく

という姿勢です。

幼い子どもが泣いているとき、
「泣くな」と叱りつけるか、
「泣いていいよ」と寄り添いながらも、
危ない方向へ走らないように見守るか。

自分の内側でも、まさに同じことが起きています。


5. 具体的なシーンで見てみる

少し具体的な場面をイメージしてみましょう。

ケース1:いつも「引き受けすぎる」人

職場や家庭で、頼まれると断れず、
仕事や家事を抱え込みがちな人がいます。

表面的には、

  • 面倒見がいい

  • いつも頑張っている

  • 信頼されている

ように見えますが、内側では

  • 「断ったら嫌われるのでは」

  • 「役に立たない自分は存在してはいけないのでは」

という不安が強く働いているかもしれません。

ここで「エゴをちゃんとやる」とは、

  1. 「本当は、少しは感謝されたいし、大事に扱われたい」と認める

  2. 「それを“嫌われないための過剰な引き受け”という形で表現してきた」ことに気づく

  3. 「今度は、ちゃんと自分の欲求を言葉にして伝えてみる」という別の表現を選んでみる

というプロセスを、少しずつ実験することでもあります。

ケース2:正しさで相手をねじ伏せてしまう人

別のタイプとして、

  • いつも「正論」で相手を圧倒してしまう

  • 自分のほうが「 moral に正しい」と感じやすい

という人もいます。

この場合、内側には

  • 「自分の弱さや不安を見られたくない」

  • 「間違っているとは絶対に思われたくない」

という強い恐れが隠れていることが多い。

「エゴをちゃんとやる」とは、

  1. 「自分は本当は、否定されるのがとても怖い」という事実を認める

  2. 「その恐れから、“正しさ”という鎧を着ている」ことに気づく

  3. ときには「自分もよく分からない」「ここは不安だ」と、少しだけ鎧をゆるめてみる

というチャレンジを、自分のペースで試していくことでもあります。

どちらの場合も、

未熟さを無理に消そうとするのではなく、
その存在を認めたうえで、表現の仕方を少しずつ変えていく

という点が共通しています。


6. 「第二の成長」としてのエゴ

子どもの頃の「第一の成長」は、

  • 自分のテリトリーを持つ

  • 「自分は自分だ」と感じる感覚を得る

といった、自我の“骨組み”をつくる段階でした。

大人になってからの「第二の成長」は、

その自我とどう付き合うか
= エゴをどのように運転するか

を学ぶ段階だと言えます。

この段階では、

  • エゴを「敵」とみなして戦うのでもなく

  • エゴに「ハンドルを渡しっぱなし」にするのでもなく

エゴをひとりの“同居人”として扱う

という感覚が近いかもしれません。

  • ときどき暴走したがる

  • わがままを言ってくる

  • 認められたいと騒ぐ

そういう性質を持った同居人を、

  • 黙らせるのではなく

  • 全部任せるのでもなく

  • 聞き取りながら、一緒に暮らし方を調整していく

その試行錯誤の全体が、「第二の成長」です。


7. 日常でできる「エゴをちゃんとやる」練習

最後に、今日からでも試せるごく小さな練習を、いくつか挙げておきます。

練習1:「本音メモ」を、誰にも見せない前提で書く

ノートやスマホのメモに、

  • 「本当はこう思っている」

  • 「本当はこう言いたかった」

  • 「本当はこうされたい」

という「本音だけ」を書き出す時間をつくります。
きれいにまとめる必要はありません。
幼い、格好悪い、ちっぽけな願いも、そのまま書いてみます。

ポイントは、

「こんなことを思う自分はダメだ」と評価しない

ことです。
まずは、「そう思っている自分が、たしかにここにいる」という事実だけを認めます。

練習2:小さな「NO」を一日に一回だけ試す

いきなり大きな場面で断るのは難しいので、

  • さほど重要ではない誘い

  • ちょっとしたお願い事

  • 会話のなかの小さな同調

などで、「本当は違う」と感じたときに、一日に一度だけ「NO」を試してみます。

「今日はやめておきます」
「私は今回は遠慮しておきます」

そのときに湧き上がる不安や後ろめたさも含めて、
「エゴをちゃんとやる」ための揺れとして、観察してみます。

練習3:「それは、誰のための正しさか?」と自分に問いかける

何かを主張したくなったとき、心の中でそっと、

「この正しさは、本当に“みんなのため”なのか」
「それとも、“自分が間違っていないと証明したい”ためなのか」

と問いかけてみます。

どちらでも構いません。
もし後者の要素が強いなら、

「ああ、いま自分のエゴが不安になっているんだな」

と気づくだけでも、一歩です。


8. エゴを否定しないところからしか見えないもの

「エゴを捨てなさい」という言葉は、
たしかにある種の境地を示しているのかもしれません。

しかし、多くの人にとってはむしろ、

まだちゃんと育っていないエゴを、丁寧に引き受け直すこと

のほうが、先に必要とされているのではないかと思います。

  • 自分の欲望や未熟さを、
    恥としてではなく「人間である証拠」として見つめること。

  • そのうえで、そのエゴに“全面委任”するのではなく、
    一緒に折り合いをつけていく主体としての自分を立てていくこと。

そのプロセスの中でしか、

「本当の意味で、他者と出会う」という経験

は立ち上がってこないのかもしれません。

エゴを消そうとするのではなく、
エゴを“ちゃんとやる”。

その地道で、少し泥臭い作業のなかにこそ、
第二の成長の入口がひっそりと口を開けています。