"掴まず、抗わず、流れとともに" 第43話
「私」という言葉は、あまりにも当たり前すぎて、ふだん立ち止まって考えることがほとんどありません。
朝起きてから寝るまで、頭のなかではずっと
「私はどうしたいか」
「なんで私はこうなんだろう」
「あの人は私をどう思っているのか」
と、「私」を主語にした独り言が流れ続けています。
この「私」という中心は、最初からそこにあったわけではありません。
どこかに「本体の私」があって、それを言葉で指し示しているわけでもない。
では、この中心はどのようなプロセスを経て立ち上がってくるのか。
そしてその立ち上がり方が、どのように「生きづらさ」と結びついてしまうのか。
今回は、「私」という中心を
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言葉
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注意(どこに意識が向いているか)
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物語
という三つの側面から、少し丁寧に見ていきます。
1. 「中心があるように感じる」という事実
まず確認しておきたいのは、「私」は“ある”というよりも、「ある“ように感じる”」という性質が強い、ということです。
たとえば、街を歩いているとき。
視界には、無数の色や形、人の声、車の音、看板、匂いが同時に入ってきています。
けれどそのすべてを等しく意識しているわけではありません。
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目の前を歩く人の持つバッグ
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スマホに届いた通知
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さっき言われた一言へのモヤモヤ
ごく一部だけが、ぐっと拡大されるように意識の「手前」に浮かび上がってきます。
その「手前」に浮かび上がっているものをまとめている仮の中心が、「私」です。
言い換えると、
「今、この瞬間、優先的に扱われている情報の束」
それをひとまとまりにして呼ぶためのラベルが、「私」であるとも言えます。
ここで重要なのは、「束」より先に「中心」があるのではなく、
束をまとめる必要が生じたから中心が“立ち上がる”、という順番だということです。
2. 言葉としての「私」が、中心を作りはじめる
次に、「言葉」の側から見てみます。
幼いころ、私たちは最初から「私」という一人称を持っていたわけではありません。
最初は、
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「○○くん、こっちおいで」
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「○○ちゃん、えらかったね」
というふうに、他人から名前で呼ばれる経験が先にあります。
やがて、
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「ぼく、やった」
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「わたし、できない」
と、自分のことを指す言葉を覚えていきます。
ここで起きているのは、単なる言葉の習得ではなく、
「世界のなかで、自分に対応する“駒”をひとつ置く」
という操作です。
言葉のなかに「私」というマス目が作られると、
そのマス目が空白のままだと落ち着かなくなります。
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何かが起きたとき
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誰かとの関係のなかにいるとき
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未来を想像するとき
私たちは、自動的にこのマス目を埋めようとします。
「ここで“私”はどう振る舞うべきか」
「“私”はどんな人として扱われたいか」
こうして、
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言葉の上で「私」という“位置”が用意される
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その位置を埋めるために、経験や感情が寄せ集められる
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その寄せ集めが「私」という“中心”として感じられる
という流れができていきます。
3. 注意の向きが、「私」の輪郭を決める
「私」という中心は、固定された実体ではなく、
その瞬間どこに注意が向いているかによって、輪郭が変わります。
同じ一日でも、
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仕事でミスをした日は、
「ダメな自分」「能力が足りない自分」に注意が集まりやすい。 -
誰かに感謝された日は、
「役に立てる自分」「信頼されている自分」に注意が集まりやすい。
注意が集まったところが、「今の私」の輪郭として感じられます。
つまり、
「私はこういう人間だ」
という感覚は、冷静な全体評価というよりも、そのときどきの「注意の偏り」に大きく左右されています。
ここでやっかいなのは、注意には慣性があることです。
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何度も「失敗した自分」に注意を向ける
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何度も「否定された自分」を反芻する
こうした習慣ができると、注意は同じ場所をぐるぐると回り続けます。
すると、その部分だけがどんどん強調されて、
「私という中心=失敗する自分/否定される自分」
という、狭くて苦しい自己像が固定されていきます。
中心そのものが悪いわけではなく、
どこに注意が集中し続けているかによって、
「私」の感触が大きく変わってしまうのです。
4. 他者のまなざしが、「私」を補強してしまう
「私」という中心は、決して一人で作っているわけではありません。
他者のまなざしが、強烈な補強材として働きます。
子どもの頃から、大人や周囲の人はさまざまなラベルを貼ってきます。
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「優等生」
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「空気が読める子」
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「手がかかる子」
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「内向的なタイプ」
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「盛り上げ役」
それ自体は、状況に応じた一時的な評価に過ぎないはずです。
しかし、それを繰り返し浴びるうちに、
私たちはそのラベルを取り込んでいきます。
「私は期待に応えなければならない」
「私は迷惑をかけないようにしなければならない」
「どうせ私は、こういう役しか与えられない」
ラベルが「役割」として内面化されると、
「私という中心」は、次のような構造を帯びはじめます。
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自分の本音や身体の感覚よりも、
「他人からどう見えるか」が優先される。 -
自分の内側で起きている変化よりも、
「これまでのイメージと矛盾しないか」が気になる。
つまり、「私という中心」が、
“今ここにある体験”ではなく、「期待された像」や「過去のラベル」の側へとずれていくのです。
このずれが大きくなればなるほど、
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自分の内側で感じていること
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他人の前で演じている「私」
の距離は開き、そのギャップが「生きづらさ」として積もっていきます。
5. 「私の物語エンジン」が中心をつくる
ここまでを少し整理してみましょう。
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言葉のなかに「私」というマス目が用意される
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注意が向いた経験や感情が、そのマス目に寄せ集められる
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他者からのラベルが、その寄せ集めに“意味”を与える
この三つが組み合わさると、
私たちの内側には、いわば**「物語エンジン」**が動きはじめます。
簡略化すると、それは次のようなループです。
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何か出来事が起きる
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そのうち一部に注意が向く(特に感情の強い部分)
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それを「私らしい出来事」として物語の材料にする
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過去のエピソードとつなげて、「やっぱり私はこうだ」とまとめる
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その物語が、次の注意の向き方を決める
このループが、日々淡々とまわり続けることで、
「私はこういう人間です」という“自己物語”が、だんだんと厚みを増していく
というわけです。
ここでポイントなのは、この物語エンジンは
良くも悪くも、非常に忠実であるということです。
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「私はダメだ」という物語を選べば、
それを裏づける証拠ばかり集めてしまう。 -
「私は常に強くあるべきだ」という物語を選べば、
弱さや揺らぎを見ないようにしてしまう。
エンジンはどちらでも動いてくれます。
問題は、
「どんな物語を、中心に据えてしまっているのか」
という点です。
6. 「中心」がないと不安だからこそ、しがみついてしまう
では、「物語をやめれば楽になるのか」と言えば、
そんなに単純でもありません。
もし私たちが、ある日突然、
「私という中心なんて幻想だ。全部やめよう」
と宣言したとしても、多くの場合、その直後に襲ってくるのは
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「では、私は何者なのか」
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「どう振る舞えばいいのか」
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「どこに立っていればいいのか」
という、足場を失う感覚です。
「私」という中心は、たしかに仮の構造ですが、
同時に、
世界と関わるための「一時的な座標」
として、実用的な役割も果たしています。
問題なのは、
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座標を「絶対的な本体」だと勘違いしてしまうこと
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その座標を守るために、世界との関わりを狭めてしまうこと
です。
本来、
「変わりうる座標」として「私」を扱う
ことができれば、
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立ち位置を微調整しながら
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関係や状況に応じて
-
柔らかく「自分」をデザインし直す
という選択肢も見えてきます。
しかし、「揺らぎ」を恐れてしまうと、
「これが私だ」と言い切れる物語にしがみつく
=「私という中心」を固めてしまう
方向に走りがちです。
その固さが、やがて身動きを取りづらくしていきます。
7. では、「私」という中心とどう付き合っていくのか
今回見てきたように、「私」という中心は、
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言葉のなかのマス目
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注意の偏り
-
物語エンジン
が組み合わさることで、徐々に立ち上がってきます。
ここから先の問いは、こうなります。
「この物語エンジンを、どう扱うか」
「どのような主語/どのような視点で、物語を語り直すのか」