生きづらさ" - その生の残響構造を探る 第6話 後編
“わたしたちは本当に、ここにいるのだろうか?”
これは、実在の人類に向けられる問いです。
世界的に知られる「哲学的ゾンビ」(philosophical zombie)という思考実験があります。それは、外見も行動も人間そっくりなのに、内面には何らの意識も感情もなく、「体験としての思い」(qualia)も欠如している……そういう存在です。
しかし、仮にそれが本当ならば、
この思考実験のゾンビは、実は私たちのことなのではないのか?
意識は錯覚であり、自我は存在しない?
スーザン・ブラックモアは「意識は錯覚である」と言います。「自我を持つ誰か」などは存在せず、「私がいる」ように感じるその瞬間には必ず「一時的な虚構」としての「私」がつくられる。
私たちの脳を形づくる物質は、そのすべてが「物理法則の支配」にあり、逃れるすべを持たない。ある種の“宗教”のように、私たちはこの法則に縛られた世界の中でしか生きられないのだ。
自由意志もまぼろしであり、生まれて今に致るまでの環境と全ての制約の中で、私たちは反応結果のシステムとして生きているにすぎない…
…とすれば、私たちは「哲学的ゾンビ」としてこの世界に存在しているのだという説にたどり着いてしまう。
生きること、すなわち「心」の葛藤
この「全人類ゾンビ説」はとても過激なものですが、しかしどこか、我々が日常の中で感じる「不快さ」や「グラデーション」の根源に達しているようにも思われます。
それは「私は自分で決められていないのではないか」「なぜこの世に生まれ、このような経路を通ってきたのか」といった、「自我の不在の予感」のようなもの。
「生きている」のはなぜなのか?
「心を持っている」はずなのに、あたかも持っていないかのように行動している。まるで外から与えられた刺激にただ反応しているだけの存在、それは、情報処理と何が違うのだろう。ときに私たちは、自分が“感じる”存在ではなく、“計算する”だけのプログラムとして、世界に立ち現れているような錯覚に陥る。
この「一切の意識も心もなく、またそのような感じすらしない状態」に生を視る瞬間は、「死を求めたくなる」ような感覚を不意に呼び起こすのかもしれません。
人類は本当に「生きて」いるのか?
「哲学的ゾンビ」としての自身を思考することは、「私は生きているのか?」という問いを投げかけることに等しいのかもしれません。
その問いと真摯に向き合い、心の動きに耳を澄ますこと。
それこそが、生の陰影を保ち、「軽やかさ」だけで塗りつぶされることのない、私たちの深い存在を支える根源なのかもしれません。