5.1 基盤の必要性
思想工学は、新しい学問分野としての独自性を持つと同時に、既存の哲学的営為と無関係に成立するものではない。むしろ思想工学は、20世紀以降の哲学的課題、存在の問い、言語の限界、権力と知、科学のパラダイム転換を継承し、それを「構造として設計可能なもの」として再定義することによって成立する。
本章では、思想工学が依拠し、また超克する主要な哲学的基盤を整理する。これは、思想工学が単なる思いつきではなく、哲学史の必然的な展開の上に立つ知的営為であることを示すためである。
5.2 存在論的基盤:ハイデガー
ハイデガーの『存在と時間』は、「存在そのものの問い」を哲学の根本課題とした。彼が示した「現存在(Dasein)」の分析は、存在が常に世界との関わりにおいて理解されることを明らかにした。
思想工学はこの伝統を受け継ぎつつも、存在論的分析を「設計的観点」から再構成する。すなわち、存在を問うのではなく、問いの構造を設計することを通じて存在との関わりを明示化する。また、ハイデガーが警鐘を鳴らした「技術的存在の支配(Gestell)」を乗り越えるために、思想工学は「批判的に設計する」という態度を提示する。これは、効率や支配を目的とする計算的思考としての技術ではなく、存在の開かれ(Lichtung)そのものを保持し、問いを育むための場を設える、詩作(Poiesis)に近い「もう一つの技術(ars)」として、設計知を再定位する試みである。
5.3 言語と差異:デリダ
デリダは「差延(différance)」の概念を通じて、意味が常にずれと遅延の連鎖の中で生成されることを示した。思想工学における「非構造的根源(Unbounded Layer)」や「問音(mon-on)」は、この差延の思想と響き合う。
ただし思想工学は、差異の遊戯を純粋に記述するのではなく、それを設計の契機として積極的に活用する。デリダが解体的批判に徹した地点を、思想工学は「設計的差延」として再構成する。これは、意味の無限のずれを無理に停止させることを意味しない。むしろ、その決定不可能性を構造のバグではなく、自己更新を促す必須の機能として受容し、その運動の中でしなやかに変化し続ける動的な構造(DSSS, RQU)をいかに構築するか、という問いを立てるのである。
5.4 知の考古学:フーコー
フーコーは「エピステーメー」という概念を通じて、特定の時代における知の前提的枠組みを明らかにした。思想工学の「前提(Preparation)」や「知的インフラストラクチャー」の概念は、この分析と密接に連関する。
しかし思想工学は、エピステーメーを「記述」するだけではなく、その改変可能性=設計可能性を前景化する。すなわち、知の支配的構造を単に暴くのではなく、それを問いによって撹乱し、誤謬を契機として新たな構造を構築するプロセスを提示する。いわば、知の地層を掘り起こす「考古学」から、未来の知の神殿を構想する「建築学」へ。これが、思想工学のフーコーに対する応答である。
5.5 科学哲学:クーンとポパー
クーンは科学史における「パラダイム転換」を提示し、科学的知が断絶的に更新されることを明らかにした。ポパーは「反証可能性」を科学の基準とし、誤謬を発見することが科学的進歩の駆動力であるとした。
思想工学はこの二つの視座を統合する。クーン的には、思想は「構造的転換」によって更新される(SEEDモデル)。ポパー的には、誤謬は進歩の契機である(Erring)。だが思想工学は、これらをさらに拡張し、誤謬を単なる破壊ではなく設計の資源とするという立場を取る。この点において、思想工学は科学哲学を超えて「知の設計哲学」へと進む。
5.6 東洋思想との接続:華厳と禅
思想工学の「インドラネット(Indra-Net)」は、華厳経における「因陀羅網」の比喩を現代的に再構成したものである。そこでは、あらゆる存在が相互依存し、相互に映し合う。
また禅思想は、「言葉にできないもの」「沈黙」を重視してきた。思想工学の「SCMモデル」は、この伝統を設計的に取り込み、沈黙を問いの生成的ポテンシャルとして保存する。すなわち、東洋思想は思想工学における「不可視のモジュール」の哲学的背景を与えている。それは、西洋哲学がしばしば「ロゴス(言語・論理)」中心に構造を論じてきたのに対し、構造を成り立たせている「間」や「無」、そして相互依存的な関係性といった、ロゴス以前/以後の次元を捉えるための、不可欠な視座を提供するものである。
5.7 結び:哲学的基盤の統合
以上のように、思想工学はハイデガー、デリダ、フーコー、クーン、ポパー、そして東洋思想の系譜を背景に持つ。だがそれは単なる継承ではない。思想工学は、それらの思想が提示した問い、"存在・差異・知の枠組み・誤謬・相互依存・沈黙"を、設計の観点から再編成する。
この意味で思想工学は「哲学を工学化する」のではなく、むしろ「哲学の問いを設計可能な構造として再発見する」営みである。それは、20世紀の偉大な哲学が遺した批判的洞察の数々を、現代という複雑な時代において思考し、実践するための「OS(オペレーティング・システム)」として実装し直す、壮大なリエンジニアリングの試みなのである。