生きづらさ" - その生の残響構造を探る 第6話 前編
私はいない、という仮説
「人間とは何か?」という問いは、長らく宗教や哲学の中心課題でした。
しかし近年では、認知科学・神経科学・AIの発展により、その問いは別の角度から再び注目を浴びています。たとえば、「意識とは何か?」「自我とは本当に存在するのか?」といった問題です。
その中でもスーザン・ブラックモアの議論は、特にショッキングで、かつ思考の深部に触れてくるものです。
彼女の主張を要約すれば、「私たちは自分自身について大きな誤解をしている。実のところ“私”などという存在は幻想であり、経験はただ生起しては消えていくだけの、意味のない通過点でしかない」ということになります。
「私」はなぜ消えなければならないのか
ブラックモアは、脳科学的事実と進化論的視点の双方から「意識は実在しない」という立場をとります。
彼女によれば、私たちは自分の内側に「誰かがいる」と思い込んでいますが、実際には思考も感情も、自律的なプロセスとして脳内で生じているだけであり、
それを「私が考えた」「私が決断した」と錯覚しているに過ぎないのです。
つまり「自我」とは、脳が自己を仮構することで生み出した一種の物語装置であり、それ自体に本質的な主体性はない。
これは非常に受け入れがたい主張です。
なぜなら、私たちは「自分は存在している」「この体の内側に誰かがいて、今この文章を読んでいる」と実感しているからです。
この直感と、ブラックモアの主張との衝突こそが、私たちの生きづらさの深層に潜んでいるものです。
それでも、どうして苦しみを感じるのか?
もし「私」がいないのだとしたら、「私が苦しい」という感覚もまた、錯覚なのか?
ブラックモアは、苦しみや快楽といった感覚(クオリア)すらも、脳の情報処理によって条件反射的に生じているに過ぎず、
そこに主体的な意味づけや自由な意思決定は介在しないとします。
しかし、それでも私たちは確かに苦しみを感じている。心が痛いとき、それはただの神経信号なのか?
この矛盾は、深いレベルでの不整合をもたらします。
もし、何もかもが決定論的で、「私」は幻想で、自由意志も存在しないのだとしたら、
"私はなぜこんなに苦しいのか?"
"誰がこの苦しみを引き受けてくれるのか?"
という問いそのものが、成立しなくなってしまうからです。
わたしたちは「苦しむロボット」なのか?
ここで現れるのが「哲学的ゾンビ」という思考実験です。
それは、外見も言動も人間と全く同じでありながら、内面的な感覚(クオリア)を一切もたない存在。つまり、意識なき模倣体です。
ブラックモアの主張を敷衍すれば、わたしたち人類は、限りなくこの哲学的ゾンビに近い存在なのかもしれません。
環境からの入力に応じて、何らかの出力を返す。
その際に生じる「心の動き」も、所詮は錯覚。
だとしたら、人類は、苦しみを感じるように設計された高精度な機械であり、「なぜ苦しいのか」という問いはバグにすぎないのかもしれません。
では、希望はどこにあるのか?
それでも私たちは、問いを捨てることができません。
「私が苦しいのはなぜか?」と問うこと。
「この世界に、意味はあるのか?」と問うこと。
そして何より、「私は存在するのか?」と問うこと。
これらの問いが、まさに人間という存在の本質なのです。
ブラックモアは、私たちから「自我」や「自由意志」を奪いました。
けれども、その問いを受け止めた私たちは、
むしろ新たなレベルで「生の意味」や「存在の構造」を考え直すきっかけを得たのではないでしょうか。
次回後編では、この問いをさらに深く掘り下げ、
「人類とは、哲学的ゾンビにすぎないのか?」
という挑発的な仮説に正面から向き合っていきます。