"生きづらさ" - その生の残響構造を探る 第37話
🏥 「死の場」が変わった
かつて人は、自宅で家族に囲まれて息を引き取ることが一般的でした。
地域の共同体や親族が死を支え、弔いもまた共同で行われていたのです。
しかし現代では、死の多くは病院で迎えられるようになりました。
厚生労働省の統計によれば、日本人の約8割以上が病院で亡くなっています。
この数値は、死が「医療の管理下」に置かれている現実を端的に示しています。
⚖️ 病院で死ぬことの意味
病院で死ぬことには、光と影の両面があります。
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光の側面
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医療によって苦痛が緩和される
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家族の負担が軽減される
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衛生的に整えられた環境で死を迎えられる
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影の側面
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家族や本人の意志よりも医療の判断が優先される
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死が「治療の失敗」と見なされがちになる
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死が日常生活から切り離され、タブー化してしまう
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病院での死は安全で清潔ですが、
同時に「死を奪われる」感覚を伴うのです。
🧩 「死の専門化」と本人の声の希薄化
医療が発展したことで、死は「専門家の管理領域」となりました。
人工呼吸器や延命処置は、本人の意思が確認されないまま続けられることもあります。
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「できる限りの治療を」という家族の声
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「最後まであきらめない」という医療者の使命感
これらが重なり合うことで、本人が「どう死にたいか」はしばしば後回しになります。
結果として、死が「個人のもの」から「社会に管理されるもの」へと変質するのです。
🌱 在宅死という選択肢
一方で、在宅での看取りを選ぶ人も少しずつ増えてきています。
しかし依然として在宅死は少数派です。
「自宅で死ぬ」ことは望まれていても、制度や人手の不足から実現が難しいのが現状です。
🌑 「病院でしか死ねない社会」の影
病院死が多数を占める背景には、社会全体の死生観の変化があります。
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死を日常から遠ざける近代化
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家族の小規模化と介護力の低下
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死を「管理しなければならない」とする医療制度
こうした要因が絡み合い、「病院でしか死ねない社会」を作り出しています。
🪶 結びに
死は本来、人生の延長として家庭や地域で受け止められてきました。
しかし現代の日本では、死は医療制度に包摂され、
病院という「専門的な場」でしか迎えられないものになっています。
死を取り戻すとは、単に病院から自宅へ場所を移すことではありません。
それは「死を語り、受け止め、共にいる力」を社会全体で再構築することです。
病院での死を否定するのではなく、
「どこで、誰と、どのように」死を迎えたいかを再び語り直すこと。
そこに、現代社会が抱える生きづらさを和らげる手がかりがあるのです。