"生きづらさ" - その生の残響構造を探る 第31話
🌑 矛盾する声の同居
「もう生きていたくない」
「でも死ぬのは怖い」
この二つの声は、しばしば同じ人の中に同時に存在します。
死にたい気持ちは、必ずしも「死そのもの」を求めているわけではなく、
多くの場合「この苦しみから解放されたい」という叫びに近い。
一方で、人間は本能的に生を維持しようとする存在です。
そのため「死にたい」と「死ねない」という矛盾は、
心の奥でせめぎ合い続けるのです。
⚖️ 「死にたい=消えたい」の翻訳
「死にたい」という言葉を、そのまま「命を断ちたい」と解釈してしまうと、
本人の本当の願いが見えなくなることがあります。
多くの場合、それは次のように翻訳できます。
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「死にたい」=「この苦しみから消えたい」
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「死にたい」=「いまの自分では耐えられない」
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「死にたい」=「生きていても意味が見えない」
つまり「死にたい」とは、「生きたい」の裏返しであり、
「もっと楽に生きたい」という願いでもあるのです。
🧩 「死ねない」側の意味
それでも人が「死ねない」と感じるのはなぜでしょうか。
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身体の本能:呼吸し、心臓が動き、生を維持しようとする働き
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他者へのつながり:家族や友人への思いが、踏み切らせない
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宗教的・倫理的な境界:死を選ぶことが「越えてはいけない線」として内面化されている
「死ねない」という感覚は、苦しみを軽視するものではありません。
それは、生が持つ抵抗力や、他者との絆がまだ働いている証でもあるのです。
🌱 その狭間にある「時間」
「死にたい」と「死ねない」の間にある時間。
そこにこそ、実は可能性があります。
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苦しみを言葉にできる時間
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誰かに気づかれる時間
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生きるか死ぬかの二分法ではなく、「しばらく保留」にできる時間
この時間をどう扱えるかが、
人を死から遠ざけたり、再び生の意味を見出させたりする鍵になるのです。
🪶 結びに
「死にたい」と「死ねない」の間は、ただの宙づりではありません。
そこには、まだ語られていない思いや、触れられていない痛み、
そしてまだ試されていない選択肢が潜んでいます。
死にたい気持ちは、生きたい気持ちと背中合わせ。
その矛盾を抱えたままでも生きていていいのだと認めること。
それが、この間に光を差し込むための最初の一歩なのです。