"生きづらさ" - その生の残響構造を探る 第16話
🌑 遺書に残された言葉
1927年、芥川龍之介は「将来に対する唯ぼんやりした不安」を理由に自ら命を絶ちました。
その死は文学界に衝撃を与えただけでなく、彼の文学そのものを「虚無の文学」として際立たせました。
「生きていても仕方がない」という感覚。
これは単なる個人的な弱さではなく、近代という時代がもたらした「生の不確かさ」の象徴でもあったのです。
📖 芥川の作品に漂う虚無
芥川の短編には、不条理や不確かさが繰り返し描かれています。
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『羅生門』:人は生き延びるために醜くもなれる
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『河童』:人間社会を逆転させることで、人間そのものの矛盾を映し出す
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『歯車』:幻覚や不安に苛まれる自己を描き、精神の崩壊を露わにする
そこに共通するのは、「人間の存在には確固とした意味がないのではないか」という根源的な問いです。
⚖️ 「意味を見つけられない」苦しみ
芥川の死に際して残した「唯ぼんやりした不安」という言葉は、
明確な理由を欠いたまま人を押し潰す感覚を表しています。
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生きる理由が見つからない
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将来に展望を描けない
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何をしても空虚感が残る
これは、病気や経済的困窮のような「外的な要因」ではなく、
存在そのものに意味を見いだせない苦しみなのです。
🧩 現代に響く芥川の虚無
現代にも、この「生きていても仕方がない」感覚は広がっています。
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仕事を続けても将来像が描けない
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SNSでつながっても孤独が埋まらない
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豊かさがあっても虚しさが消えない
芥川が直視した「根拠のない不安」は、
21世紀の私たちにもなお突きつけられています。
🌱 意味のなさと共に生きる
では、この感覚にどう向き合えばよいのでしょうか。
大切なのは「意味のなさを克服する」ことではなく、
意味のなさそのものを受け入れて生きることかもしれません。
彼の文学は、虚無と共に生きるという現代的な課題を、
私たちに投げかけ続けています。
🪶 結びに
「生きていても仕方がない」という感覚は、
人間の弱さの証ではなく、むしろ人間の本質に近い問いです。
芥川龍之介の文学は、
その問いを恐れずに見つめたがゆえに、今なお力を持っています。
私たちにできるのは、
「意味がないかもしれない」という感覚を無理に消そうとせず、
その不確かさを生の一部として抱えていくこと。
虚無を直視した芥川の死は悲劇でしたが、
その文学は「生きるとは不安と共にあることだ」という、
静かな真実を私たちに残しています。
📌 次回予告
第17話では、「若き詩人たちの死──中原中也・立原道造」を取り上げます。
若くして逝った詩人たちの言葉に、短命だからこそ響く「生の濃さ」を見ていきます。